「I Love まりちゃん」外伝

魅惑の33階
〜9〜





「…は、春姫ちゃんっ?」

「小倉和彦にとって、長岡淳は『ただの部下』に過ぎないから?」


 …ど、どうして…。


 いきなり言い当てられたショックで、僕は全身に冷水を浴びせられたように、凍り付いた。

 そして、次に耳に届いたのは、『やっぱりね…』という、小さな呟きだった。


 早く否定しなくては…と、心は酷く焦っているのに、喉が張り付いたようになって言葉がでない。


「なんとなく変だなって思ってたの。だって淳くん、お兄ちゃんの話になるとすごく嬉しそうで、生き生きしてて…。怒られてばかりっていいながら、でも、すごく楽しそうに仕事の話してて…」

 …気づかれていたなんて……。
 

「もしかして、淳くんは私の向こう側に、お兄ちゃんを見てるんじゃないか…って気はしてたのよね」

 自分自身ですら、自覚したばかりのこの想いを…。




「…はるひ…ちゃ…ん」

 漸く絞り出した声は酷く掠れていて、春姫ちゃんが驚いたように僕を見る。


「…ごめん、本当に…ごめん……」

 僕は、謝罪の言葉を繰り返すだけで精一杯で…。

「…やだ、どうして謝るの?」

「だって、僕は、君のお兄さんを…」

「うーん。でも好きになっちゃったものは仕方ないじゃない」

「…好きになってはいけない人なのに?」


 そう言うと、春姫ちゃんはちょっと考え込んで…やがて微笑んだ。


「淳くんが悩んですべてに蓋をしようとした気持ちはよくわかる。でも、好きって気持ちが止められないのもよくわかるから…」

「春姫ちゃん…」

「…大丈夫だよ。お兄ちゃんには黙っといてあげる」

 その言葉に、僕の体の戒めが、ふっ…と軽くなる。

「…ありがとう。春姫ちゃん」


 本当にありがとう。
 これで僕は、これからも室長の側にいることができる。


「だって、悔しいじゃない。こんなに可愛い私が、お姉ちゃんたちにならともかく、お兄ちゃんに負けちゃったなんて」

 …ほんとだね、春姫ちゃん。こんなに可愛くて優しい君に出会えたのに。

 もし、室長に出会っていなければ、僕はきっと、君を好きになった。

 でも、もう『if』はあり得ない。



「ね、お兄ちゃんのこと、いつから好きになったの? どんなとこがよかった?」

 矢継ぎ早に尋ねてくる春姫ちゃん。
 でも、僕はもちろん、そんな彼女の表情をきちんとみることなんかできなくて、聞かれるまま、無防備に春姫ちゃんの質問に答えていた。

 …なんだか、ショックが大きすぎて、魂が抜けてしまったような気分…。






 その後、響子さんが、『ぜひ夕食を』と春姫ちゃんを誘ってくれたので、父や姉たちも一緒に賑やかな時間をすごし、あまり遅くならないうちにと、僕はマンションの前まで車で彼女を送っていった。



『これからも、仲良しでいてね』

 車を降りるとき、春姫ちゃんはそう言って、右手を差し出してきた。

『それはこっちの台詞だよ。春姫ちゃん、本当にありがとう』

 そういって差し出された手をそっと握ると、春姫ちゃんはおどけたように『どういたしまして』と答え、『そうそう、お兄ちゃんね、私と淳くんが友達になったこと、知ってるんだって』なんて言う爆弾発言を落としてくれた。

 なんでも情報源は春奈さんらしい。

 ということは、室長があの日僕を食事に誘ってくれたのも、春姫ちゃんとの関係を考えて…のことだったのかと思い至り、また気分は沈んでいく。

 けれど、春姫ちゃんはそんな僕の心を見透かしたように、『大丈夫。私が上手くやるから』とにっこり笑い、『またね』と、走っていった。



 その後ろ姿を見送りながら、僕は一つ、小さく息を吐く。

 これから先もきっと平坦な道ではないだろう。

 でも、僕は、僕の気持ちに正直に生きる。

 例え、この気持ちが永遠に報われなくても、僕がMAJECの秘書室にいる限り、『室長』と『部下』としての関係は続いて行くから。

 それ以外のことは、絶対に望まない…から。



                   ☆ .。.:*・゜



 9月に入ったというのに暑さはまだまだ去ろうとしない。

 だが、日が暮れてしまうとさすがに8月とは違う風が吹き始める。

 春姫がまだ帰宅しそうになかったので、和彦は水をやろうとベランダへ出た。

 ベランダには、2人で育てているハーブのコンテナが並んでいる。

 ミント・バジル・ローズマリー…。
 ポピュラーなものばかりだが、その分利用価値も多く、2人のお気に入りだ。


 夏の水やりは、早朝か陽が落ちる頃がベストだというのは和彦が調べた事だった。

 三女の夏実がこの家を出てから1年と少し。それからは、二人きりの生活をそれなりに楽しんできた。


 夕飯は食べてくると言ったので、『あまり遅くなるなよ』と注意はしたのだが、そんな心配をすることも、これからはあまり必要ないのかも知れない。

 そう思うと、少し寂しい気もするが…。




 3階のベランダから、何気なく視線を落とした地上に一台の車が滑り込んできた。

 そして、メタリックシルバーの、今時の若者が好みそうなスポーツカータイプのそれから降りてきたのは…。


 ――淳…、春姫……。


 見てはいけない。
 見たくない。

 どちらの思いが大きいのか、もちろん検証している余裕などないが、和彦は慌てて視線を外すと、途中だった水やりを再開した。

 何も見なかったかのように。


 それからたいして時間を置かずに、春姫は帰ってきた。





「ただいま」

「あ…ああ、おかえり」

 出来るだけ自然に…と、リビングへ戻り、ソファで夕刊を広げてみたところへ春姫が入ってきた。


「今ね、淳くんに送ってもらっちゃった」

 あまりに唐突にその名を出され、夕刊が不自然な音を立てる。

 何故、今、突然に…。


「…春姫、お前…」

「ごめんね、お兄ちゃんの部下の人と知り合ったの、ナイショにしてて」

 だが春姫の態度は謝罪の言葉とは裏腹に、浮かれているようにすら見える。


「いや、それは…」

 きっと…淳と春姫は上手くいっているのだろう。

 2人で食事に行ったあの夜以来、自分と淳の関係は、良好で穏やかなものになりつつある。
 
 きっとそれは、淳の心を軽くしたのだろう。だからこそ、ここまで送ってくることも出来るようになって…。


「知り合ったのはね、ちょっと前なんだけど…」

 話を続けようとする春姫に、和彦はどんな顔をしていればいいのか、まったく自分が取り繕えず、ソファーから腰を上げようとした。


「お兄ちゃん、そこ、座って。聞いて欲しい話があるの」

 だが、はっきりした口調でそう言われてしまえば、もう逃げられない。

 仕方なく、ソファーにもう一度腰を下ろした。

「でも、お兄ちゃん春奈さんから聞いてたのよね。私と淳くんが知り合っていたこと」

「あ、ああ…。聞いてはいたんだが、その、取り立てて口を挟むようなことじゃない…と思ったから…」

「ふうん」

 ほんの少し唇を尖らせて、春姫は沈黙した。

 だが、次に口火を切ったのも、春姫だった。


「今日、私、淳くんに告白したの」



 覚悟はつけていたはずなのに…締め付けられるように胸が痛い…。

「好きですって」

「…そう…か」


 また沈黙が訪れる。



 だがやはり、焦れて口を開いたのは春姫だ。

「…淳くんがどう答えたのか、聞かないの?」

 聞かないのではなくて、聞きたくないのだ。

「…いや、聞かなくても、わかるさ。お前は…お兄ちゃんの自慢の妹だからな。こんなに可愛い子を振るヤツなんていない…さ」

 無理に笑ってみる。

「そうだよね」

 だから、そう言った春姫の微笑みが少し寂しそうだったことに、和彦は気づく余裕がなかった。


「私もそう思ってたんだ。だって、淳くんってば、私と会うときはいつも楽しそうだったし」

「……春姫?」

「なのにさ、私……振られちゃったんだよ」


 ――なんだって?


「淳くん、好きな人がいるんだって」

 また、胸がずきりと疼いた。

「…そう、か」


 ――好きな人……か。


「すごく好きなんだけど、嫌われるのが怖くて告白できないんだって」

「…あいつらしいな…」

「でも、淳くんみたいにいい男、振られるとは思えないよねえ、お兄ちゃん」

「そうだな…」

 確かにそうだ。淳は見栄えがいいだけでなく、中身も優秀で、そして優しい人間だから。


「もしかして、『これで小倉兄妹はそろって淳くんに失恋〜』…とか思ってる? お兄ちゃん」





 ――瞬間、何もかもが真っ白になった。


 やがて頭の奥から、甲高い、耳障りな金属音が響いてきた。


「…おにいちゃん。淳くんのこと、好きなんでしょ」

 だから、春姫の声もよく聞き取れなくて。

「…あのさ、隠しててもバレバレなんだよね。私、生まれたときからおにいちゃんと一緒に暮らしてるんだよ」

 そっと触れてきた春姫の柔らかい手の感触が、きつい耳鳴りとともに激しい目眩を起こし始めていた和彦の意識をかろうじてつなぎ止める。



「…はる…ひ」

「お兄ちゃんがあんな声で誰かの名前を呼ぶなんて……初めてだったもん…」

 ギュッと手を握られて、漸く思考回路が動き始める。


 まさか、聞かれていたのか。あの夜の、呟きを。


「すまない…」

 そして、誤魔化す機会を完全に逸し…いや、今さら誤魔化しは効かないのだと認識したとき、最初にでた言葉はやはり、謝罪だった。

「…なんで謝るのよ」

 春姫はそう言うが、和彦の奥底にはずっと澱のように沈んでいたのだ。

 春姫の幸せを最優先に望んでいながら、彼女の思いを心の底から祝福できなかったことに対する、拭いきれない罪悪感が。


「…お前の気持ちを知ってから、…淳のことは諦めようと思ったんだ…」

 けれど、今だって――淳に好きな人がいると聞いてなお――決して諦め切れたわけではないのだ。

 心は今でも、淳を欲しがっている。強く、激しく。


「うん…ありがとう…おにいちゃん」

 だから、『ありがとう』なんて言われる資格はない。

 和彦は唇をきつく噛んだ。


「おにいちゃんさぁ、淳くんがどう思ってるかって、考えたことある?」

「え…?」

「私もお兄ちゃんも、淳くんの事が好きなんだから、やっぱり淳くんが一番幸せになれるように考えてあげないとダメだよね」

 それは、あの夜、会長に言われた言葉と同じで…。



『本当に淳を想うのなら、淳の気持ちを真っ先に考えてやってくれ』



「そうだな…春姫の言うとおりだ」



 救われたような気がした。

 あの時は、見失いかけた道を会長が照らしてくれて、今夜は、また暗闇に閉ざされそうになったところを、春姫がそっと手を引いてくれた。


「お兄ちゃんってさ、めっちゃ厳しいんだってね。淳くんぼやいてたよ」

「…いつの間にそんな話を…」

「ふふっ」

 春姫に余裕の微笑が戻り、その微笑みには妙に妖しい色が交じる。

「でもね、淳くんってば、そんなお兄ちゃんが好きなんだってさ」

 けれど、さらりと口から流れ出た言葉は、そのまま聞き流してしまいそうなほど自然で。


「え?」

「一生告白できなくても、お兄ちゃんのことが好きなんだって。ずっと『ただの部下』でいいから側にいたいんだって。ほんと、淳くんってば健気なんだから」


 ――何の話だ…?


「ね、お兄ちゃん。私の自慢の素敵なお兄ちゃんが、失恋なんてするはずないでしょ?」

「春姫…?」

 和彦の、人一倍早いはずの現状分析能力が、まったく機能しない。

「淳くんのこと、大切にしてあげてね」


 ――誰が、誰を大切に…って?


 反応しない和彦に、春姫が呆れたように肩を竦めた。

「やだ、お兄ちゃんってば、もしかして現状把握できてないとか?」

 その通りだ。

「あのね、お兄ちゃん。お兄ちゃんと淳くんは、両想いなのっ。だから、淳くんのことよろしくねって言ってるんだけど?」


 ――まさか…。


「……本当、か?」

「私がお兄ちゃんに嘘言ってどうするのよ」


 その言葉に、今まで地の底を這っていた和彦の気持ちは一瞬にして舞い上がろうとした。だが…。


「けれど、春姫、お前の気持ちは…」

 誰よりも幸せにと願った末っ子の思いはどうなるのか。


「なんだ。まだそんなこと考えてくれるんだ」

「当たり前じゃないか」

 思わず咎めるような声を出してしまった和彦に、春姫が飛びついてきた。

「お兄ちゃん、ありがと、大好きだよ」

「…はるひ…」

 その小柄な体をしっかりと受け止める。

「私ね、嬉しいんだよ。だって、大好きなお兄ちゃんが好きになったのが淳くんで、大好きな淳くんが好きになったのがお兄ちゃんだったなんて…」

「…でも、本当にいいのか?春姫はそれで」


 まだ不安を滲ませる和彦の頬を、春姫はその小振りな手のひらで、『パチン』と小さな音を立てて軽く挟んだ。 

「あのね、淳くんと私が両想いなら、どんなにお兄ちゃんが淳くんを好きでも渡さないよ。でも、淳くんが好きなのはお兄ちゃんなんだから、これがまっとうな結末じゃないの。だからお兄ちゃんは何にも心配いらないの。淳くんの事だけ考えてあげて」


 言い切った春姫は、それはそれは、晴れやかな笑顔を見せた。


10へ続く



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