「I Love まりちゃん」外伝
羨望の33階
〜12〜
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帰国して、本来なら2日間の休暇がもらえるはずだったんだけれど、僕はそれを返上して――だいたい出張の後半はバカンスだったし――成田に到着したその足で出社した。 少しでも早く、室長の顔が見たかったから。 「お帰り、淳」 そして、そんな僕を室長は、満面の笑みで迎えてくれた。 「ただいま…帰りました」 僕は、少し見上げて弾んだ息で答える。 そんな僕の頬に、室長のひんやりとした手のひらが添えられて…。 「電話の一本もくれなくて寂しかったぞ」 その瞳が優しげに細められる。 …え…、本当に…? どうしよう…なんか、すごく、嬉しい。 今までしっかり目を見ていられたのに、何だか急に照れくさくなって僕は思わず俯いてしまう。 すると室長の手が背中に回り、そっと抱き寄せられる……って…。は、春奈さんがそこに…っ。 …あれ?いつの間にかいない…。 「こら、何をよそ見してる」 さっきまでいたはずの春奈さんの姿を求めて目を泳がせていた僕の顎をしっかりと捉え、室長は僕の顔をクイッと正面に向けた。 「え、あ、あの、春奈さんが…」 「ああ、察しのいい部下を持って幸せだな、私は」 …な、なんてことを……。 「そんなことより、淳…」 焦点が合わなくなるほど室長の顔が近づいてきた…と、思ったら、しっとりと熱い唇が触れてきた。 唇よりももっと熱い舌先が僕の唇をそっと舐める。 それに誘われるように思わず口を緩めると、身体は更に強く抱きしめられ、侵入してきた舌は僕のそれを強く絡め取って吸い上げた。 …目が眩むような…キス。 いつもはそんなキスに、翻弄されておろおろするばかりの僕だったんだけれど、何だか今日は違う。 僕自身が、強く、室長を求めていて、離れたくない、離したくないと願ってしまう。 そして、そんな僕の気持ちは、行動にも表れていて…。 いつものように抱きしめられるばかりではなく、僕の腕も室長の広い背中にしっかりしがみついていて、これ以上ないほどに密着した唇の奥では、僕もいつになく積極的に室長のキスに応えていた。 けれど、当然というか何というか、ここは職場であって、いくら僕たちの関係が公認されてしまっているとは言え、これ以上のこと――って、したことないけど――を、ここでいたすわけにもいかず、僕たちはそっと唇を解いた。 「…まったく…仮眠室に連れ込みたい気分だな」 苦笑しながら室長がまた僕を抱きしめる。 つ、連れ込むって…。 僕はその言葉にまた照れてしまったりして…。 でも、照れてる場合じゃないんだ。 言わなくちゃいけないことがある。そう、室長が出張に行く前に約束したあのこと。 今日こそちゃんといわなきゃいけない。 「室長」 「ん?なんだ、淳」 抱きしめられたままだった僕は、そっと室長の胸を押して顔を上げる。 「旅行、連れていって下さい」 室長の目を見てしっかりと言うと、室長は一瞬目を見開き、そして破顔した。 「淳!」 そしてまた、抱きしめられて…。 今までこの腕の中に閉じこめられると、僕の身体は緊張で固くなるばかりだったけれど、僕は漸く気がついた。 この場所がどれだけ暖かくて居心地がいいところなのかということに。 最高に素敵なこの場所を無くさないために、僕はこれからずっと、室長を追い続ける。 室長…あなたに追いつける日はきっと永遠に来ないけれど、でも、僕が今のあなたと同じ歳になったとき、あなたに負けない人間でいられるよう、僕はあなたを追い続ける。 …で。 ちっとも春奈さんが帰ってこないから、不審に思って無人のはずの会長室――会長は専用車がちゃんと成田から自宅まで送り届けたはずだから――を、覗いてみれば…。 「…ったく、どこからそんなものを…」 会長室のドアを開けたまま、呆然と立ち尽くす僕の隣に立って、室長が心底呆れた口調で呟いた。 でもその呟きはちゃんと会長――そう、何故か会長室にはその部屋の主の姿があった――の耳に入っていて、会長はご満悦の風情でグラスを傾けながら、不敵に微笑んだ。 「どこからって、フランス帰りだぞ、私は」 そう、会長室の大きなデスクの上には、オーベルジュのオーナーが会長にプレゼントしたフランス産の最高級ワイン。 「…誰が輸出元の話をしてるんですか」 けど、そんな室長の呟きを綺麗に無視して、会長はご機嫌で『かんぱ〜い』なんてやっている。 でもって、乾杯のお相手は当然というか何というか…春奈さん。 まあ、一応就業時間は超えているから問題は無いと言えばないんだけれど…。 「で、いったい何に乾杯ですか?」 室長が更に呆れた声で訊ねると、会長は春奈さんを見てニヤッと笑った。 そして、その春奈さんは、会長の視線を受けてニッコリと笑って僕を見る。 「もちろん、今し方繰り広げられた、秘書室での熱い抱擁に」 脱力する僕らの前で、会長と春奈さんは、それは様になる仕草でカチンとグラスを合わせた。 ☆ .。.:*・゜ そしてまた日常が戻ってきて、例のルカも研修を終えて研究室での仕事に忙殺され始めたらしく、僕の前に姿を見せなくなり、漸く平和な日々が……と思っていた矢先にそれは起こった。 今年のカレンダーも残り僅かとなり、街にはクリスマスのデコレーションが溢れ、そして秘書室では、室長が再びシンガポールまで出かけて詰めていた重要案件が漸くまとまったと連絡が入り、穏やかな空気が満ちていた。 とりあえず、年明けまでは大きな動きは無いはずで…。 3日前から会長と沢木さんはアメリカへ行っていて、今日の便で会長だけ帰国されることになっている。 沢木さんはそのままアメリカに残って今日から休暇。そして、佐保さんも昨日から休暇に入って、アメリカへ。合流してオーロラを見にアラスカへ行くそうだ。 会長をお一人にするわけにはいかない…と、沢木さんは会長と一緒に一旦帰国すると言ったんだけど、会長が『せっかくの休暇なのに時間がもったいないだろう?』と仰って、結局沢木さんはそのまま残ることになったんだそうだ。 だから今頃は、会長は日本へ向けて太平洋上。佐保さんはアメリカへ向けて太平洋上。沢木さんはニューヨーク。 そして、重要案件をまとめ上げた室長は、あと2時間ほどでシンガポールから成田へ到着の予定。 「淳くん、コーヒー飲む?」 春奈さんと二人きりの秘書室。 「あ、僕やるよ」 「いいからいいから」 そんなやりとりの最中、突然電子音が鳴り響いた。 それは、外線でも内線でもなく…海外の支社のTOPとここ、秘書室を繋ぐホットライン。 緊急か、もしくはその用件が普通回線の使えない機密事項の場合のみ鳴るその呼び出し音に、僕らは一瞬固まり、そしてより近くにいた僕がその通話ボタンを押した。これでやりとりはハンズフリーになる。 「はい、本社秘書室です」 『Hello』 相手はロンドン支社長――Mr.Gordonだった。 会長が大学で助教授をされていた当時の先輩だという、穏やかで暖かい感じの英国紳士だ。 2ヶ月ほど前、出張で日本に来た彼とはとてもうち解けて話が出来たんだけれど、今、回線の向こうの彼は、その時の彼と同一人物とは思えない固い声で、挨拶もそこそこに、流暢な日本語で緊急事態の発生を告げた。 『T社の買収に横やりが入った』 「「なんですって?」」 僕と春奈さんは同時に驚きの声を上げた。 イギリスのT社は半導体分野で特殊技術を保有している中堅企業なんだけれど、経営が厳しくなり、今回MAJECが、T社が保有する特許ごと買収することになっているんだ。 それに今さら横やりが入るだなんて。だって、契約はもう締結してるんだから。 『至急、会長か和彦に連絡を取りたいんだが、捕まらない。二人のスケジュールはどうなっている?』 こんな時に限って、二人とも今頃機上の人だ。 僕がそれを告げると、Mr.Gordonは小さく『そうか…』と呟き、続けて『T社の首脳陣がアメリカのR社に寝返るつもりのようだ』…という情報を教えてくれた。 寝返るって…そんなの道義的にも許されるわけない。 締結されている契約を覆すなんて、あってはならないことで…。 でも、そんなことを言っている場合ではないってことは、続いて彼が告げる現在の状況を聞いているうちにはっきりしてきて。 とりあえず、R社へ寝返られてしまうのだけは阻止しないといけない。 だって、T社から買い取る特許技術を元に、MAJECではすでに新しいプロジェクトを立ち上げているんだ。 現在ルカが忙しくて僕にちょっかいを掛けてこられなくなっているのもその所為で…。 『秘書室の指示を仰ぐ。30分以内に決断してくれ』 一通りの説明を終えると、Mr.Gordonはそう言って一旦回線を切った。 決断――それは、この事態をどう収集するかということ。 T社がR社に寝返るのを黙って見ているのか。黙っていないのなら、寝返らせないためにどんな手を打つのか。契約が締結している段階でなお寝返ると言うことは、恐らくもう正攻法は効かないということだろう。 「春奈さん…」 「淳くん…」 僕らは一瞬呆然と見つめあったあと、とにかく会長か室長を捕まえようと必死になった。 なのに…。 「どう?」 「ダメ。会長と室長が搭乗されてる便を衛星で追ってもらってるんだけど、繋がらないの」 僕の腕時計は、壊れてるんじゃないかと思うくらいあっという間に時を刻んでいく。 「沢木さんと佐保さんは?」 「こっちもダメだ。捕まらない」 …くっそう…どうしてこんな時に限って…。 せめてあと2時間あれば、室長が帰ってくるのに…! |
13へ続く |
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