「I Love まりちゃん」外伝

羨望の33階
〜13〜





「あと10分…」

 ポツンと春奈さんが言った。

「春奈さんはどう思う?」

 僕がそう水を向けると、春奈さんは一瞬躊躇ってから、『二桁…じゃ済まないかもね』と言った。

 二桁で済まない…とは、こちらが正攻法でT社の寝返りを止めようとすればさらに必要になって来るであろう買収金額のこと。
 もちろん単位は『億』だ。

 恐らくT社はMAJECのプロジェクトが動き始めたと踏んで、足元を見る形で揺さぶりをかけて来たんじゃないだろうか。ったく、なんてやつらだ。

 契約は締結されているわけだから、寝返られてもMAJECがT社相手に損害賠償を請求することは可能だし、裁判になっても当然勝てるだろうけれど、でも、一過性の損害を賠償してもらってもしようがない。

 こっちはプロジェクトの存亡がかかってるんだ。そしてそれは、これから先、長く利益を生み出すものなんだから。 





 タイムリミットが迫ってきた。

 ロンドン支社長は、はっきりと『秘書室の指示を仰ぐ』と言った。

 僕と春奈さんは決断を迫られ、僕はこの時始めて、秘書室の本当の姿を、頭ではなくて身体で知ったんだ。

 秘書業務だけなら一人ないし二人で十分事足りるのに、5人も秘書――しかも会長専任と言ってもいい――が、いるわけは、MAJECの秘書室、それ自体が経営の中枢としてここに存在していると言うこと。

 そして、大きな権限を与えられていると共に、それ以上の責任を背負っている…ということを。


「R社がどんな条件を提示しているのか、今調べ上げてる時間はないけれど、それを覆してもう一度こちらに取り込むには…」

 言葉を切って、春奈さんが僕を見る。

「組織全体を相手にしてたんじゃ埒があかないよね。また寝返られてどんどんこちらの条件が悪くなることも考えられるし。それに、このままT社の言いなりだなんて…」

「出来るわけないわ。ほんっと、ムカツク」

 僕の苛立ちを春奈さんが引き継いだ。

「T社のTOPのデータってある?」

「ある」


 超特急でデータを検索すると、目的のものはすぐに見つかった。

 取引先…特に買収先のデータは、そのプライベートに至るまでかなり詳細に調べ上げている。ヤバイ方面と癒着されていると後々面倒なこともあるから。



「ふうん…」

 春奈さんが、データを一瞥して小馬鹿にしたような声を上げた。

 僕もデータを見ていてその気持ちはよくわかった。けれど、これなら何とかなるかも。

 T社の会長は個人的な負債を多額に抱えていたんだ。しかも表沙汰には出来ないような類のもの。
 とすると、攻めどころはかなり明確かも知れない。

 僕らはほんの一瞬考え、そしてまた顔を見合わせた。

 このまま真正面から「待った」を掛ければこちらが数十億単位――ことによってはそれ以上――の打撃を受けることは明白だ。
 
 契約が締結していることを理由に裁判を起こすことも可能だけれど、世界中がしのぎを削って新しい技術開発をしている中、そんな時間的ロスは許されない。

 けれどこのまま見逃すわけにはもちろんいかない。

 とにかくこの寝返りを止めないと、プロジェクトそのものが転覆してしまって、その場合の損失もまた、とんでもない額になる。

 いや、金額的な話だけじゃない。MAJECの将来そのものに関わってくる。

 いかにMAJECが受ける打撃を少なく、T社を再びこちらに取り込むか…。


「そもそも社会のルールを平気で無視出来るようなヤツを相手に、こちらが気を遣ってやる必要はないわよね?」

 春奈さんがニヤリと笑う。

「もちろん」

 この時、春奈さんが考えているであろうことは、僕には手に取るようにわかった。

 今、打てる最良の手は、これしかないと思っていたから。

「じゃあ…『OK』?」

「もちろん。淳くんは?」

「当然」

「じゃあ、迷う理由はないわね」

「うん」


 頷く春奈さんに、僕はもう一度大きく頷き返し、そしてホットラインの回線を開け、告げた。

『MAJEC本社・秘書室』の『意志』を。



                    ☆ .。.:*・゜



 ロンドン支社長Mr.Gordonは、その後すぐ行動を起こし、T社の会長を2億で買収――あくまでも個人的に――した。

 もっとふっかけてくるかと思っていたんだけど、会社ではなく、内密に個人の懐にすべて入るとあって、敵はあっさりと堕ちたらしい。それだけ切羽詰まっていたということなんだろう。

 そして、一旦R社に寝返りかかっていたT社は、個人的欲望に目が眩んだT社会長の鶴の一声で、またあっさりとMAJECに戻ってきた。

 結局、優秀な技術を持ちながら身を持ち崩していく企業の背景には、こんなつまらない人間がのさばっているということだ。

 TOPの経営センスが無くて傾いた会社ならテコ入れのしようもあるだろうけれど、TOPの性根が腐っていたんじゃ、ほんと、どうしようもない。

 で、相手はこんな、とことん性根の腐った経営者の風上にも置けないようなヤツだから、これからも油断は禁物というわけで、あとは会長や室長がどう判断されるか。それを待たなくちゃいけない。





 そして、コトが一段落した頃、室長が帰ってきたんだけれど、なんと秘書室に入ってきた室長の開口一番は『二人とも、よくやった』という言葉だった。

 それには僕も春奈さんも本当に驚いて…。

 理由を尋ねようとしたところに、会長専属の運転手である山本さんから春奈さんに呼び出しがかかった。

「あ、いけない、時間だわ」

 春奈さんはこれから成田まで会長をお迎えに行って、そのまま都内で行われるメーカーの技術者会議にお供をすることになっている。

 でも、春奈さんは物言いたげに室長を見て…。

 そんな春奈さんに室長は優しく微笑んで言った。

「行っておいで。会長が話をして下さるから」

 …ってことは、もしかしてすでに会長も…?


「…はい」

 釈然としない気持ちを残しつつ、春奈さんは、『行って参ります』と言って秘書室を後にした。





「さて…」

 室長が真剣な面もちで僕を見つめる。

「室長…ご存じだったんですか?」

 僕は――普段の僕からすると考えられないことなんだけど――何かを言おうとする室長の言葉を遮って、自分の疑問を口にした。

 そして、室長の説明は僕を唖然とさせた。


 僕たちが判断を迫られていた最後の10分。

 その頃、Mr.Gordonは室長への連絡に成功していたんだ。そして、もちろん室長はすぐに会長に連絡を取って……つまり、僕たちのボスは最後の最後の段階で、この状況を把握していたってことになる。

 把握したその上で、僕たちの動向を見守っていた…ということなんだ。


 …酷い…。


 僕は唇を噛んだ。

 この局面を何とか乗り切ろうと春奈さんと二人、必死だった。

 けれど、それもこれもすべて、会長や室長の掌の上の出来事だったということで…。


「淳…」

 気遣わしげな室長の声が、僕を一層苛立たせる。

 いっそのこと『新米秘書なんかには任せておけないからな』って笑い飛ばしてくれた方がマシだ。

 こんな風に優しい声で労られてしまったら、僕は、もう…。


 急に目頭が熱くなって来て、でもそのままなんかには絶対できないから、僕は一度、震える唇をきつく噛んでから、無理矢理口を開いた。


「…僕たちは…試されたんです…か?」

 俯いたままの僕の二の腕を、室長がギュッと掴んだ。

「淳、それは違う」

 けれど、室長の言葉はどこまでも暖かくて。

「騙そうとか試そうとしたわけじゃない。それは誓って言える。あの緊急事態は確かに起こった。そして、最初に対処に乗り出したのはお前たちだ」

「じゃあ、どうして…っ」

 どうして、すぐに対応に出てこなかったんだ。室長も、会長も。

「淳」

 真摯な色を含んだ室長の声に僕がのろのろと顔を上げると、暖かいけれど、でも恐ろしいほど真剣な眼差しが僕を見据えた。

「…ここにいる限り、私たちはこういう事態にいつ直面するとも限らない。取引が大きくなればなるほど、動く金と人間は膨れ上がり、そして、それが万が一崩壊したときにはもっと多くのものを巻き込んで、そして、失う。
そんな日常にこの秘書室はあるんだ。 私だって、未だに足が震える時がある。自分がYesと言ってしまったばかりに、もしかしたら、MAJECの仲間たちに多くの損害を与える事になるかも知れない…。そう思うと、眠れないときもある。けれど、ここにいる限り、そう言う事態は常に自分の肩にのし掛かってくる。それは…淳、お前も一緒なんだ」

 静かだけれど、厳しくて、そして重い言葉。
 でも…。

「でも、もし僕が失敗したら…!」

 思わず声を荒げてしまう僕の頬を、室長の掌がそっと覆った。

 ひんやりとした感触が、僕の火照りをぬぐい去る

「心配はいらない。その時はすべての責任を私が取る。私がお前の上司であるということは、そういうことだ。そして、そのために私がいる」

「室長…」

「だがお前なら必ず乗り切ると信じていた。だから私は、その瞬間をこの目で見つめていたかったんだ」

「…室長…」

「淳、胸を張れ。お前はもう、一人前だ」



 その言葉に、僕はついに堪えきれず大粒の涙を零し、手触りのいい室長のスーツを盛大に濡らしてしまったのだった。

 もちろん室長はそんな僕を暖かい腕でずっと抱きしめていてくれて…。





 その後、会議を終えた会長が春奈さん――彼女もすっきりした顔をしていた――を伴って悠然と帰社されて、僕は会長からも『よくやった』と言われてまた目を潤ませてしまったりなんかした。


 その後判明した事実によると、結局のところ、T社の役員たちは自分たちだけの利益を考えて社員たちを切ろうとしていたらしい。

 どう言うことかというと、MAJECはもともと『T社の全員をロンドン支社に再雇用する』と約束していたんだ。もちろんそれは現役員も含まれる。
 
 けれど、もちろん役員たちはその地位を降ろされ――つまり、経営能力のない役員はMAJECにはいらないということで――、一般社員として迎え入れるということになっていた。

 けれど、R社から提示された条件は、『役員はそのまま役員待遇で迎え入れる』というものだったんだ。もちろんそんな美味しい話が無条件であるわけがない。
『ただし、一般社員は全員解雇』という条件もついていたんだ。


 ちなみに我らが会長は『そんな経営者』が大嫌いだ。能力もないくせにTOPに立ち、その不始末のツケを社員に回すようなヤツは経済界から駆逐すべきだと思ってる。

 それは、まだたった半年しか会長の側にいない僕にだって手に取るようにわかる話で…。



 そしてその後、関係部署から入ってくる報告を一通り受けた後、会長はニヤッと不敵に笑った。

「さて、ここからは私の仕事だ。MAJECを裏切ろうとしたことを、やつらに骨の髄まで後悔させてやろうじゃないか」


 そう言って、ロンドン支社へのホットラインを開いた。

 それから僕と春奈さんは、会長の本当の凄さを目の当たりにすることになった。

 そう、最終的にMAJECは、T社の会長の個人買収に使った2億をきっちり回収し、その上『契約を反故にしようとした』慰謝料を役員たちからぶんどり、しかも買収条件から『全員をロンドン支社に再雇用する』という項目を外すことに成功した。

 もちろん再雇用してもらえないのは役員たちだけ…なんだけどね。



14へ続く



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