「I Love まりちゃん」外伝
羨望の33階
〜15〜
![]() |
「え?ザルツブルグに?」 「そう。明日の夜に日本を発つ予定なの。ごめんね、お兄ちゃん」 「そんな、急に…」 12月30日。 ロンドンのバカ経営者が起こしてくれた『寝返り騒動』のおかげで休暇が先送りになり、本日午後から漸く休暇に入った和彦に、妹・春姫が年末の予定を告げてきた。 春姫は映画監督である淳の父にスカウトされ、今回の映画で主人公の妹役でデビューすることが決まっていた。 が、海外ロケがあるということを、和彦は今日初めて知ったのだ。 監督とは一度会ったのだが、お互いに『素性』はバレバレというわけで、特に突っ込んだ話をすることもなく、監督からは『淳をよろしくお願いします』と言われ(もちろん『仕事の上で』という意味以外に深い意味合いはないのだが)、こちらからは『春姫をよろしくお願いします』と頭を下げ、あとは和やかに雑談に終始した会食だったのだ。 だから…と言うべきか、当然と言うべきか、和彦は『撮影のスケジュール』などと言うものはまったく把握できていない状態で、いそいそとスーツケースに荷物を詰める妹の姿を唖然と見つめるばかりだ。 「そうだ、お兄ちゃん。明日から淳くんに泊まりにきてもらいなよ。一人じゃ寂しいでしょ?」 手を止めて、春姫がニコッと笑った。 「一人って…。正月なんだから秋葉も冬那も夏実も帰ってくるだろう?」 春姫の上の3人の妹たちは、いつも休暇の度に配偶者や恋人を連れて帰ってくる。 だから今日も会社帰りに『おせち』の材料をたくさん買い込んできたと言うのに。 しかし、そんな和彦の視線を受けて、春姫は目を泳がせた。 「あー、それがね、秋葉お姉ちゃんは珍しく旦那様の長期休暇が取れたからって、セブ島でバカンス。冬那お姉ちゃんは国家試験の準備があるから今年は帰れないって。で、夏実お姉ちゃんは、春に新しい支店を立ち上げる準備で3月末までベルギーにいきっぱなしだって」 「なんだって?」 そんなこと、初耳だ。すべて。 そういえば…。今まで何かにつけてはメールで色々なことを報告してきた妹たちが、ここ最近は音沙汰が無かったような気がする。 頭の中が『淳一色』の和彦には、まったく気にならなかったのだが。 「だから、お兄ちゃん、可哀相だけど一人っきりなわけよ」 春姫のこれ見よがしな同情顔はどうみても胡散臭いのだが。 「そうだ!私が電話してあげるから、ねっ」 「お、おいっ、春姫っ」 だが止める間もなく、春姫は携帯を手にとってボタンを一つ押した。どうやら短縮に登録してあるようだ。 「あ、もしもし、監督、お忙しいところ申し訳ありません」 (ちょっと待て〜!) 淳に電話をするんじゃなかったのか…と和彦は慌てて春姫を止めようとしたのだが、すでに後の祭りのようだ。 春姫は秋からこっちのさまざまなレッスンの賜物か、妙な演技力を身につけたようで、監督を泣き落としにかけている。 そして、電話の向こうの『巨匠』も、小倉家の家庭事情を知っている所為なのか『淳でよければいくらでも使ってくれ』な〜んてことを言っている。 淳と二人過ごせるならば、もちろんどんなシチュエーションでも歓迎なのだが…。 「というわけで、お兄ちゃん」 通話を切って、春姫がニコッと和彦を見上げてくる。 「明日の朝、監督が迎えに来て下さるんだけど、ついでに淳くんを乗っけて送り届けてくれるって。よかったね〜」 …あっという間に話がまとまってしまった。 「美味しいおせちたくさん用意してあげなきゃね。あ、でも淳くんのお母さんもお料理上手だからなあ〜」 これはもしかして煽られているのだろうかと思いつつ、それでもあっさりとそれに乗ってしまいそうな自分が可笑しい。 それでも、 「…わかったよ。今年の正月は淳と静かに過ごすよ」 などと、冷静を繕って言ってみれば、春姫がニッ…と視線を投げてよこす。 「静かにし過ぎて部屋の中に閉じこもりっきり…なんてことにならないようにね」 「…おい…」 職場では格好のネタ扱いにされ、家に帰れば十も離れた末っ子にからかわれ、自分の蒔いた種とは言え、情けないことこの上ない。 だが。 「…やだ、お兄ちゃん、顔が緩んでるよ」 自覚はあるから反論のしようがない。 「…さ、夕飯の準備でもするかな。春姫、明日から当分食べられないんだろうから、和食にしてやろうか?」 「え?ほんと?わ〜い!」 だが、優秀な秘書室長様は、立ち直りも早いのだ。 もちろん、心の中は早くも明日に飛んでいるのだが。 ☆ .。.:*・゜ 「へ?どういうこと?」 午前中で仕事納めをし、帰り道で響子さんや姉貴に頼まれていた買い物をして夕方帰宅した僕を待っていたのは、どうみても『小旅行』という風情の荷物だった。 明日から海外ロケだという父さんの荷物はこんなものでは済まないはずだから、僕はまた、響子さんもどこかへ出かける気なんだろうかと思ったんだけれど…。 「明日は10時頃にうちを出るからな。そのつもりで起きろよ。こっちは飛行機の時間があるからな。寝過ごしたら置いてくぞ」 父さんの言葉に、響子さんがにこやかに頷きながら、『荷物は作っておきましたからね。ちゃんと室長さんのお手伝いするんですよ』なんて言ってる。 何事かと問いただしてみれば、なんと僕は、いつの間にか明日から室長の家に泊まりに行くことになっていたんだ。 「いや〜、本当にあそこは仲の良い兄妹だからなあ。今さらながら、せっかくの正月に春姫くんを連れていってしまうことが申し訳ないよ」 「そうですね。でも淳くんは明るくて楽しい子ですから、きっと室長さんの気も紛れますよ」 …ちょっと待った。 もしかして、僕は春姫ちゃんの代わりに室長のところへ送り込まれるってわけ? 「でも、春姫ちゃんには3人もお姉さんがいるじゃないか」 そう、年始には妹たちが帰ってくるから…って室長言ってた。 だから、今度室長と会えるのは、もしかしたら休暇明けってことになるかも…って覚悟してたんだ。 室長は、『元旦には会おうな』って言ってはくれてたんだけど。 「それがね、今年はたまたま3人とも帰ってこられないんですって。春姫ちゃんが言うには、今日までそのことをお兄さんに伝え損ねていたそうなの」 「いや、本当に春姫くんはお兄さん思いのいい子だな。兄を一人にするのが可哀相だから、淳くんをお借りできませんか…なんて、いじらしい声で電話してきてなあ」 …なんか、陰謀臭いんだけど…。 「ま、彼は甘ったれのお前をここまで一人前の社会人にしてくれた恩人だからな。これくらいのことで恩返しにはならんが、せいぜいお役に立ってこい」 そう言って僕の背中を盛大に叩く父さんに、返す言葉もなく半ば呆然としてしまった僕を呼び戻したのは、スーツの内側で震えた携帯だった。 「…もしもし?」 なんと電話の向こうは春姫ちゃんだった。 『あ。淳くん?お久しぶり〜。監督には明日からお世話になります』 「あ、こちらこそ」 礼儀正しく挨拶してくる春姫ちゃんに、一瞬今までの事を忘れそうになったんだけど…。 『ついでにお兄ちゃんもよろしくね』 悪戯っぽい笑みを含んだ声で言われて、そうだった…と、携帯を握りしめた。 「あのさ、どういうこと?」 両親に聞かれないようリビングを後にして、自分の部屋へ戻りながら春姫ちゃんを問いつめた。 『どういうこと…って、そういうことじゃない』 「そういうことって…」 『うふふ、ご両親公認で堂々と恋人の家にお泊まりできるチャンスなんて滅多になくってよ〜』 …そりゃそうだけどさ。 『旅行、ダメになっちゃったんでしょ?』 そう言った春姫ちゃんの声は、さっきまでの悪戯っぽい声とは全然違って、なんだか慈愛に――それこそ室長譲りって感じの――満ちていた。 「春姫ちゃん…」 『…な〜んてね。押しつけがましいこと言っちゃったけど、本音でお兄ちゃんのことよろしくね…って感じなの。ずっと私たちの面倒見てきた所為なんだろうけど、お兄ちゃんってば、うちに帰ってきたら自分の時間の使い方ってわかんないみたいでね。やることなくなったら仕事を始めてしまいそうでね、一人で置いておくの、マジで心配なの』 春姫ちゃんの言葉に僕の胸が小さく痛む。 ずっと妹たちの面倒を見てきて、自分の事に時間を使うと言うことを知らない人…。 『お願い、淳くん。お兄ちゃんに素敵な休暇をプレゼントしてあげて』 「…うん、僕なんかでよければ」 僕が側にいることで、少しでも室長の気が紛れるのなら、いくらでも。 『や〜ね〜。淳くん以外に誰がお兄ちゃんを幸せにできるっていうの?』 う…。恥ずかしいことを…。 『でも…急なお願いになってごめんね、淳くん』 とんでもない。春姫ちゃんのおかげで今、僕がこうして幸せな気持ちでいられるんだ。 ほんと、彼女にはいくら感謝してもし足りないくらいなんだから。 「ううん、こちらこそ、ありがとう。春姫ちゃんも気をつけて行っておいでね」 『うん、頑張ってくる!』 元気にそう言った春姫ちゃんの言葉には、本当に気合いが入っていた。 今度の映画、父さんも自分のターニングポイントになるだろうって言ってるぐらい気合いが入ってるんだけど、なんだか良い作品になりそうな気がする。 それからほんの少し、お互いの近況を報告し合って僕たちは電話を終えた。 で、そこで唐突に気がついたんだけど…。 そう、室長はこのこと、承知してるのかってこと。 それを確かめずに押し掛けるわけにはいかなくて、僕が室長に電話をかけようとしたとき、メールが着信した。 『明日、楽しみに待ってる』 たったそれだけの短い文面に、僕の心臓は恥ずかしいくらいに高鳴った。 もちろん、差出人は室長。 僕はしばらくその画面を見つめていたんだけど、一つ大きく深呼吸して、返信をした。 『お世話になります。よろしくお願いします』 我ながら素っ気ない返事で嫌になってしまうけど、でも、それを打つだけでも心臓の鼓動が届いたかのように、僕の指は震えていた。 室長の家で、二人きり…。 そしてその夜、恥ずかしいことに僕は、まるで『初めての遠足』を前にした子供のように、神経が高ぶって眠れなかったんだ。 |
16へ続く |
*まりちゃん目次*Novels TOP*
*HOME*