「I Love まりちゃん」外伝

羨望の33階
〜2〜





 積もるんじゃないかと懸念された雪は、それほどでもなく、1時間ちょっとでやんだ。

 それでも雪に慣れていない都会の道は、ちょっとした渋滞を起こし、室長は予定より1時間ほど遅れて帰ってきた。

 そして僕たちは、週末の夜を楽しむために、あれ以来二人で通うようになった、室長が7年以上行きつけている例の店に向かった。


 店主の浅田さんは、あの日以来室長と共に現れるようになった僕をいつも歓迎してくれて、どんなに混んでいる夜でも、電話一本で一番奥の座敷を用意して待っていてくれているんだ。

 今夜もそれは変わりなく、僕たちは静かな座敷で二人きりの食事と会話を楽しんでいる。

 もちろん僕の脳裏には、沢木さんから言い渡された『密命』がこびりついて離れないんだけど…。


「ところで、淳」

「はい」

「何か聞きたいことでもありそうだな」

 …この人は、どうしてこう察しがいいんだろう。会長もすごいけれど、やっぱり室長も負けてない。

「淳はすぐに顔に出るからな」

 嬉しそうに言う室長。でも、それは秘書としてはまったくいただけない話なんだけど。

 でも、室長はオンとオフを見事に切り替えられる人で、オンでは僕に『より完璧な秘書』としての対応を容赦なく求めてくるけれど、オフではこれでもかというくらい甘やかしてくれる。

 そして僕はというと、そう言う切り替えがかなり苦手で…つまり、オンでの対応に追われてオフまで気が回らないって言うか…その…甘やかしてくれる室長になかなか慣れなくて、いつもドキドキするばかり。


「いえ、あの…」

 ほら、こんな風に思いっきり言葉に詰まっても、何も言わずにただ、笑顔で僕の次の言葉を待ってくれている。

 もっとも、7月の正式配属以来ずっと注意され続けていただけあって、オンでの僕の言葉遣いはかなりスムーズなものになってきているから、その分オフでは寛容になってくれているのかもしれないけれど。


「ええと、明日から、あの…本社研修に来るって言う…」

 思いっきり言葉につかえつつ、しかも語尾まで濁して僕は室長の様子を伺う。

 けれど、もちろん室長はそれだけで察してくれて。

「ああ、そのことか」

 室長の様子がこれ以上話したくなさそうだったら、もうこの話は切り上げようと思ったんだけれど、全然そんな感じがなかったので、僕は沢木さんからの密命を履行すべく続きを促した。

「あの、引き抜いてこられたとか言う話を聞いたんですけど」

 けれど、室長はあっさりと否定した。

「いや、引き抜いたわけではないんだ。本当は向こうの大学に在籍したまま、その研究室での研究を依頼するつもりだったんだが、本人がどうしてもこっちへ来たいと言い出したんだ。まあ、MAJECの研究室も工科大学以上の設備は整っているし、来てくれると言うのならそれに越したことはないと思ってな」


 そりゃそうだよな。海の向こうとやりとりするよりは、都内にある研究所の方が経費の面で比べ物にならないのはもちろん、なにより――研究の内容にもよるけれど――機密の面でも安心だし。

「じゃあ、採用ではなくて、招聘ですか?」

 それにしては、研修ってのはおかしいよな。

「いや、採用だ。ぜひMAJECに入社したいという希望でな」

 …なんか腑に落ちない。だって…。

「でも、研究報酬と給料じゃ比べ物にならないでしょう?」

 依頼を受けて研究をするのと、社員になって研究するんじゃ得られる収入が全然違うはずだ。
 
 それに、もし特許問題なんかが絡み始めたら、社員と言う立場は研究者よりも不利になる。

 ただ、企業に属してる方が、安定して継続研究できるという学者もいることはいる。特にITの分野は研究費が嵩む場合が多いから…。
 
 まあ、『自由な研究』と『研究費を捻出する苦労』を天秤に掛けた結果、どちらを取るか…っていうことだよな。


「ああ、そうだな。だが、もちろん向こうもそれは承知の上で、入社の意志が固くてな」

 ふぅん…。何か理由でもあるのかな?

 …も、もしかしてっ、産業スパイとかっ。

 あ……でも、そんなことに『この』室長が気づかないはずないしな。


「あと、本人曰く、祖母の国で暮らすのが憧れだったんだそうだ」

「え?アメリカ人じゃないんですか?」

「国籍はアメリカだ。だが、母方のお祖母さんが日本人だそうだ。クォーターということだな。まあその所為か日本語はかなり堪能だからそっちの心配はいらないし」

 話しながらも室長は、料理を取り分けてくれたり、ワインを注いでくれたり…と、僕のことを甘やかし放題。

 で、僕も…と思って手を出すんだけど、僕には何にもさせてくれないんだ。

 おかげで春姫ちゃんには『ほんと、長男気質と末っ子気質で相性抜群ねー』なんて冷やかされる羽目になったりして…。


「いずれにしても、やる気をもって入社してくる人間は歓迎だからな。早くこっちの生活に馴染んでくれればいいなと思ってるんだ。まあ、本社研修といっても秘書室との接点はないから顔をあわせる機会はないと思うが、何かあった時はフォロー頼むな」

 でも、最近、本当に『たまに』だけれど、こんな風に『頼むな』って言われるようになったんだ。

 実際はちっとも頼りにならないんだけれど、言葉だけでももらえるともうめちゃくちゃ嬉しくて…。

「はい!」

 ついつい元気よく返事してしまう僕に、室長はまた惜しみなく笑顔を向けてくれる。

「あ、でもどうして『本社研修』なんですか?」 

 うっかりしちゃうところだった。ここのところをしっかり聞いて沢木さんや佐保さんに報告しなくちゃいけないんだった。

「本人が、企業に属する以上は、専門バカではいたくないと言うんだ。MAJECの一通りはきちんと頭に入れておきたい…とね」

「なんか珍しいですね。普通、研究者って専門のことに専念したいって言うのに…」

「だろう?話していてもなかなかユニークな子だからな。…そう言えば、淳と同じ歳だったんじゃないかな」

「え、そんなに若いんですか?」

「確か大学を出たのが16歳くらいだったはずだ。18の頃にはすでにM.S.(Master of Science)だったそうだから」 

 …18歳で理学修士か…それはまた優秀な…。


「まあ志しとしては結構な話だし、それに異国での生活習慣に馴染む…といった意味も含めての研修と捉えればいいかと思ってな」

「そうですね」

 いずれにしても室長の言うとおり、MAJECに優秀な人が入ってくるのは歓迎すべきことだよな。僕ももっとがんばらなくちゃ。


「それはそうと」

「はい?」

「いつになったらお前は敬語をやめてくれるんだ?淳」

 …あ〜、ええっと〜…。

「それに、いつまで経っても『室長』だし…」

 室長は心底疲れたようにため息をつく。

「す、すみませんっ」

「…ほら、またそんな他人行儀な」

「…あ」


 こんな調子で、僕は未だにプライベートな時間でも、室長を『室長』と呼んでいて、話す口調も秘書室にいるときとほとんど変えられない。

 …ううん、自分では目一杯変えているつもりなんだけど。

 だって、仕事中は張りつめた気分で接しているし、オフの時間はこうして甘えさせてもらって、いろんな話をしているし…。


 でも、室長に言わせると全然変わってないらしい。

 確かに、室長の変貌振りに比べると全然かも知れないけれど…。

 だって、驚いたことに…。

「仕方ないな。これからはオフの時間に、俺のことを『室長』と呼んだらペナルティってことにしようか」

 室長ってば、オフでの一人称が『俺』の人だったんだ。

 24時間365日『私』の人だと思いこんでいたから、初めて気づいた時にはかなり――勝手に…だけど――びっくりしたんだ。

 で、僕が初めて気がついたときに、春奈さんに『気がついてました?』って聞いたら、『やだー!そんなオフの顔、淳くんにしか見せるはずないじゃないー!!』って散々背中を叩かれまくった挙げ句に『オンでは知的に『私』、オフではワイルドに『俺』!いやぁん、もう〜!室長ったら〜!!』って、10分ぐらい悶えられちゃって、どうしようかと思ったんだけど。


 もっとも、『俺』になるのはよっぽどリラックスしているときで、本人も普段から使い慣れているから『私』って言う方が多いな…とは言ってるんだけど。


「いいな、淳」

「…は?」

「は?…じゃないだろう。ペナルティだ、何がいい?……ってお前に聞いていたのではペナルティにならないな」

 そんな嬉しそうな顔で『ペナルティ』なんて考えないで下さいってば〜。


『何にしようかな』…なんて、楽しげな表情を見せる室長の前で、僕はこっそりとため息をつく。

 室長のこんな表情、MAJECの人たちは誰も知らないんだと思うと、僕はそれだけでも舞い上がってしまいそうなんだけれど、もうそろそろそれだけではいけないんだと言うことにも薄々感づき始めているから…。


3へ続く



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