「I Love まりちゃん」外伝

羨望の33階
〜6〜





 翌朝。
 いつもより早い時間に出勤した僕は、僕よりほんの5分ほど遅れてやってきた室長に、いつものように元気よく挨拶をした。

 昨夜のこと、もちろん気にはなるけど、これも仕事の一部なんだからと不安な気持ちにしっかりと蓋をして。


「おはよう、淳。昨日はすまなかったな」

「いいえ。とんでもないです」

 そう言った僕に、室長は微笑んでくれて、そして…。

「あのな、淳。昨夜話をしようと思っていたんだが…」 

 もしかして、佐保さんが言ってた『楽しい話』?

「年末あたりは何か予定があるか?」

「え?年末…ですか?」

「そう、家族旅行とか…」

「いいえ。今年は何もないです。父が年末から長期ロケで留守をするらしくて、毎年あっちこっちに連れ回されてる母が、たまには家でのんびり過ごししたいというので…」

 …あ、そう言えば、そのロケに春姫ちゃんも行くんじゃないだろうか。

 室長、知ってるのかな?

 そのことを聞こうとした時、室長が、かなり真剣味を帯びた目で僕をジッと見つめた。


「じゃあ、旅行に行かないか?」

 …え…。

「いや、うちも年が明けると妹どもが帰ってくるんでな、なかなか時間が取れなくなるんだが、年末の3日間ほどなら大丈夫だから…」

 …りょ、旅行というと、と、泊まるってこと…だよな?

 でもって、もしかして…いや、もしかしなくても、二人で…だよな?

「まあ、大して遠出は出来ないと思うが、それでも一緒に過ごせる時間が長いのはいいことじゃないかと思うしな」

 ちょっと照れたように笑う室長が、何だか凄く眩しくて…。

「あ、あのっ」

「ん?」


 優しく微笑み返されて、僕はなんだか急に恥ずかしくなって俯いてしまう。

「…だめ…か?」

 これでもかって言うくらい柔らかいけれど、でもなんとも言えず切なそうな声が降りてきて、僕はまた慌てて顔を上げた。

「いえっ、そうじゃなくて…っ」

 もちろん行きたいに決まってる。

 僕だって室長…ううん、和彦さんの側にいたいんだ。

 許されるなら、24時間、365日、いつだって…。
 でも…。

「…少しだけ、考える時間いただいてもいいですか?」

 恐る恐る僕がそう言うと、室長は『もちろん』といって、僕の肩をポンと叩いた。

 そして、その手はそのまま僕の肩にとどまり、ギュッと抱き寄せられ…。

 息が出来なくなるくらいの抱擁と一緒に、熱い唇が触れてきた。

 未だに慣れることのできない僕を、あっさりと翻弄してしまう、情熱的な…キス。

 こんな風に――いっそ僕に有無を言わせず、考える隙を与えてくれなければ……。

 ぼんやりとそんなことを思った瞬間、僅かに離れた室長の唇が呟いた。


「…そろそろ限界、だぞ…」



                    ☆ .。.:*・゜



 うー。意識が裏返る…。

 朝、あんなことを呟かれてしまってから、僕の集中力は低下の一途を辿っている。

 こんなことじゃいけない…そう言い聞かせるたびに、あの時の室長の熱い吐息を思い出してしまい、身体が震える。

 そして、かえって意識してしまう結果になって…。


 幸い…というかなんというか、室長は今日もまた研究所へいってしまって今は不在。

 こんなに集中力を欠いた仕事ぶりを暴露してしまったら、旅行どころか、呆れられてポイッ…なんてことに…。

 …あああ、縁起でもない…。



 思わず浮かんでしまった不吉な言葉を振り払うように、頭をブンブンと振り、ふと顔を上げた僕の目に、真剣な表情でディスプレイに向かう佐保さんが映った。

 沢木さんと恋人同士である佐保さん。

 今、二人は一緒に暮らしていて――隣同士、部屋は二つ借りてるんだそうだけど、片方はクローゼット代わりだって言ってたっけ…って、情報源はなぜか会長なんだけど――普段も極々自然に寄り添っている。
 
 側にいるだけで、こっちの気持ちまで暖かくなってくるくらいに。



 そんな二人の「始まり」は佐保さんが入社してから3ヶ月目くらいだったと聞いている。

 なんでも沢木さんが佐保さんに一目惚れしてしまって、それはそれは毎日熱心に口説き落としたのだとか。

 今の、何もかもに余裕を見せる佐保さんからはちょっと想像できないんだけど、当時の佐保さんは人見知りが強くて、ガードが固くて…。

 そりゃあ色々と大変だったんだよ…ってこっそり教えてくれたのは沢木さん本人。


『でも、こっちも必死だったから、結局押し切ってしまったけどね』


 そう言って軽くウィンクして見せた沢木さんにも、今や当時の苦労の片鱗も見えない。

 今の僕に見えるのは、お互いを信頼しきっているカップルのもつ強さ…のようなものだけなんだ。

 でも、佐保さんは…怖くなかったのかな? その…一歩を踏み出すときに……。


 ぼんやりと、でもかなり真剣にそんなことを考えていると、僕のパソコンにメールが着信した。

 開いてみて、驚いた。
 差出人は、目の前のその人。佐保さん。


『どうしたの?淳くん。見つめてくれるのは嬉しいけど、こんなとこ見つかったら、僕、室長に殺されちゃうよ(笑)』


 びっくりして僕がディスプレイから顔を上げると、佐保さんはこちらを見ることもなく、ディスプレイを見つめたまま、ふわっと微笑んだ。

 そして、また新着メールが。


『美少年の悩ましげな憂い顔は目の保養になるね〜(笑)けれど、淳くんの先輩としては憂い顔より笑ってる顔の方が見たいかな〜』


 …美少年って、それは佐保さんの事でしょう〜。

 一度私服姿の写真を見せてもらったことあるんだけれど――もちろん沢木さんに――『高校の頃ですか?』って聞いたら、去年の写真だって言われてびっくりしたもんな。


『ってことで、何か悩んでる? 僕でよければ話してみる? あ、借金の申し込みなら大二郎さんにお願いね。あっちの方が給料いいから(笑)』


「ぷっ」

 思わず噴き出しちゃったじゃないか。
 佐保さんってば、ほんとにお茶目だ。 


 春奈さんが会長室に行っててよかったよ。
 そうでなかったら、絶対『今噴き出したの、何?』って突っ込まれてたに違いない。


 佐保さんの優しい心遣いに、僕は芯からふわっと暖かい気持ちになって、やけに素直な気持ちになれた。


『ご心配おかけしてすみません。お言葉に甘えて……いいですか?』


 そう返信すると、またすぐに返信が…


『もちろんOK〜♪ 淳くん、今夜室長との約束は? 僕はフリーだよ』


 そうか、沢木さんは今夜、会長のお供で経済団体のパーティだったっけ。


『僕も約束はありませんから、大丈夫です。よろしくお願いします』


『了解〜☆ ふふっ、淳くんと二人きりって初めてだね。室長に睨まれちゃうかな?』


 それを言うなら…。


『僕の方こそ、沢木さんに怒られないかと心配です』


『あはは、大丈夫。うちのダーリン、寛容だから』


 あああ、思いっきり惚気られちゃったよ。

 でも、確かに寛容そうだよな、沢木さんって。

 いつも穏やかで優しい瞳で佐保さんのこと、見てる。
 愛おしくて仕方がない…って感じで。


 でも、ただ無条件に寛容なだけじゃなくて、そこにはきっと二人が築き上げてきた固い信頼関係があるんだろうなと思う。

 ともかく、佐保さんのおかげでその後の僕は、かなり落ち着いて仕事に集中することが出来た。 

 そしてその夜、室長はまたしても研究所からどこかへ出かけたようで――もちろんアフターのことで、仕事じゃない――会えないままになり、僕は佐保さんと二人だけで飲みに出かけたのだった。


7へ続く



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