「I Love まりちゃん」外伝

羨望の33階
〜8〜





「おはよ、淳くん」

 ビルの入り口で出勤してきた僕の肩を叩いたのは、ちょっとの間その存在を忘れていた研修社員の彼…そう、Ruke Orwell…だった。

 昨夜一晩、あれやこれやと考えを整理していた僕は、今日、室長に会ったら『旅行に連れていって下さい』ってちゃんと言おうと決めていた。

 だから、結構緊張していて、軽く叩かれた肩にもビクッと反応してしまったりして…。


「…おはよう…Mr.Orwell」

「やだなあ、ルカでいいってば。室長もそう呼んでくれるよ?淳くん」

 …嘘。…ほんとに?

「さ、もう一度ね」

 そう言って彼はまた僕の肩をポンッと叩いた。

「おはよう、淳くん」

「…おはよう……ルカ」

 室長が呼んでいると言うのなら、なおさら嫌なんだけど、こんなことで意地を張るのも悔しい気がして、僕は渋々彼をファーストネームで呼んだ。
 まあ、その方が呼びやすくはあるんだけれど。


「そうそう、良くできました」

 いいながら、わざわざ背伸びしてまで僕の頭を撫でようとする彼を、僕はしっかり――身体が勝手に動いただけなんだけど――避けてしまう。

 そんな僕をみる彼…ルカの瞳の中に、またしても好意的とは言い難い光を見つけて、僕はまた戸惑った。

「そうだ、昨日も遅くまで二人っきりで和彦さんと飲みに行ってたんだけどね」

 え…もしかしてとは思っていたけど、それにしても…二人きりって? 研究所の人たちが一緒だったんじゃなかったのか?

「彼って、本当に優秀な人だね。頭の回転が速いのはもちろんだけど、ありとあらゆる方面に造詣が深くて、僕の専門分野でさえ対等に話ができるんだもん。おまけに優しくて思いやりがあって…。あんな人見たことないよ」

 興奮気味に話すルカを前にして、僕の心は急速に強張っていく。

「そうだ。『初めての日本の生活でなにかと心細いと思うから』って和彦さんの自宅に招待されちゃったんだ〜。泊まりに来ていいよって。嬉しいなあ〜」

 …そんな…。室長が?

 ぼ、僕だってそんなこと言ってもらったことないのに…。

「あれだけ素晴らしい人なのに、30を過ぎても独身だなんて変だなあって思ってたら、ちゃんと恋人はいたんだね」

 顔は笑っているクセに、僕を見上げる瞳は険しい。

「でも…」

 そして、ふとその瞳の色を緩めると、彼はクスッと笑いを漏らした。

「どれだけすごい恋人だろうと思ってら、まさか、君みたいのだったとはね」 

「…な…っ」

 どうしてコイツにこんなことまで言われなきゃならないんだと僕が肩を震わせたとき、ちょうどエレベーターが降りてきて、彼は馴れ馴れしくも僕の背に腕を回してまるで連れ込むかのように開いた扉へ僕を押し込んだ。

 それなりに混んだ箱の中。

「ごめんごめん。悪い意味じゃないんだよ。ただね…」

 密室の中、そこで勝手に言葉を切った彼に、僕は続きが気になりつつも、こんなところで問いただすわけにいかず、グッと唇を噛みしめる。

 途中の階で何人かを下ろしつつ、最上階に近いMAJECに着く頃は、箱の中は僕とルカだけになっていた。

『ポン』と軽い電子音を立てて、箱は31階に到着した。研修中の彼はここで降りる。

「あの『小倉和彦』の恋人だからって、僕が勝手に期待していただけなんだ。ごめんね、淳くん」

 閉じていく扉の向こうで、彼はそう言ってにっこりと――天使のように微笑んだ。



                   ☆ .。.:*・゜



「昨日の話、考えてくれたか?」

 始業前の秘書室。

 優しく問いかけてくれる室長に、僕の答は決まっていたはずだった。

 なのに…。


『あの『小倉和彦』の恋人だからって、僕が勝手に期待していただけなんだ』


 頭の中に、ついさっきルカに告げられた一言が蘇り、僕はその大切な返事を言い淀んでしまったんだ。

 そして俯いてしまった僕の頭上に降ってきたのは、密やかな、室長のため息。

「…すまん。どうも余裕がなくていかんな。昨日の今日じゃ、返事をしろって言われても困るよな」

 …え…。

「あ、あのっ…」

 そうじゃなくて…と言おうとした僕の言葉を、室長は小さなキスで塞いだ。


「実は、午後から急にシンガポールへ飛ばなくてはいけなくなった。早ければ1週間ほどで戻れると思うから、その間にゆっくり考えておいてくれないか」

 それだけ告げるともう僕にはそれ以上何も言わせず――それこそが、室長の『思いやり』なんだろうけれど――また優しく微笑んで、『留守を頼むな』と言い、廊下側から聞こえてきた、誰かが出勤してきた気配に僕の身体をそっと放した。

 そして午後も早い時間に、本当に慌ただしくシンガポール――MAJECのアジア統轄本部がある――へ発ってしまった。

 出かけ際、僕の耳元に、

「声が聞きたいからな、携帯はいつでもオンにしておいてくれるか?」

 と、そっと囁いて。

 もちろん僕は、はい…と、頷いたんだけれど、結局僕は、室長にちゃんと弁解する間もなく――というよりは、誤解させてしまったまま、見送ることになってしまったんだ。



                   ☆ .。.:*・゜



 それから…。

 僕は日々の業務を相変わらず余裕なくこなしていて、室長からは毎日連絡が入った。しかも、僕にとって都合のいい時間ばかりを狙って。

 いくら時差が少ないとはいえ、時間的にかなり室長が無理をしているのは明白で、ただでさえハードな出張の日々を送っているはずの室長を思って僕は何度となく『無理しないで下さい』とお願いしたんだけれど、室長の答えはいつも同じ――『淳の声を聞くのが、疲れを癒す最上の方法なんだ』――で、取り合ってもらえなかった。

 もちろん、僕にとっても室長の声が聞けるのは何よりも嬉しいことで、毎日かかってくる電話に、数日前ルカに言われた一言も漸く意識の中から消え去ろうとしていたのだけれど…。


「やあ、淳くん」

 社食の出入り口。

 ここへ来ると、どうしても顔をあわせてしまいそうだったから、ここのところ、わざわざ昼休みを遅く取らせてもらっていた僕が油断した隙を突いて、彼はまた現れた。

「…どうも」

 自分でも嫌になるほど愛想のかけらもない声で返事をすると、ルカは大げさに肩を竦めて見せた。

「やだなあ、そんなに警戒しないでよ。僕は淳くんのこと、気に入ってるんだけどな」

 …そりゃあ、さぞかしイジメ甲斐があるんでしょ…。

 とても本気で『気に入ってる』とは思えないような意味深な微笑みで言われてしまうと、ついつい、僕の考えもやさぐれた方向へ向かってしまう。


「ところで…」

 いきなり腕を取られて僕は廊下の自販機の脇へと連れ込まれた。

「和彦さんからは毎日連絡ある?」

 …やっぱり室長絡み…か。

「あります、けど」

 それが何か…?と問おうとした僕に、ルカは、

「ほんと、マメだよね、彼ってば」

と、ニッコリと微笑んで見せた。


「僕のところにも、毎日かかって来るんだ」

 …え?

「大丈夫か?変わりはないか?って」


『大丈夫か?変わりはないか?』


 それはまさに、電話口で必ず室長が僕にかけてくれる優しい言葉で…。

「『それでなくても気を遣う研修中なのに、側にいてやれなくてすまない』…なんて言ってくれるんだよ。『心細くないか?』って。ほんとに優しいね、彼」

 砂糖菓子のような甘い微笑みが零れる。

 それはそれは、幸せそうに…。

 そして…。

「ね、僕も和彦さんのこと、好きになってもいい?」

 まったく予想外な……ううん、違う、僕だって薄々感づいていたはずだ。
 目の前の、この可愛らしい人間が、室長のことを嬉しげに語る毎に、そして、僕を見るこの瞳の冷たさに。

 いつか彼が、真正面から僕に挑んで来るであろう事を。


「ごめんね。君が現在の恋人だってことはよくわかってるんだ」

 けれど僕は、その予感に目を背けてきた。

 だって…。

「あ、誤解しないでね。別れてとか譲って…とか言ってるんじゃないよ? ただね、何かにつけて面倒な恋人だと、和彦さんも疲れちゃうかな…とか思うんだ」

 こんなにも不甲斐ない僕だから、真正面からぶつかってこられたら、きっと……負けてしまうと思ったから…。

「僕みたいに面倒くさくないのも一人くらいいた方が、彼も息抜きできるかな…なんて」

 …ね、と微笑まれて、僕はただ、曖昧に頭を振った。そして、ルカに背を向ける。

「…淳くん?」

 怪訝そうな声。僕がもっと取り乱すと思っていたのだろうか?

 でもお生憎様。

 ここで『室長は誰にも渡さない』と正面切って言い返せるくらいなら、僕はここまで落ち込まない。


「…どうぞご自由に。人が人を好きになるのに、誰の許可もいらないだろ?」

 そう…。もし室長が僕以外の誰かに心を移したって、僕にそれを止める権利なんてないんだ。

 僕に出来るのは、ただ…。

 ルカが何かを言ったようだけど、僕にはもう聞こえなかった。

 そして僕は、常に心のどこかで怯えつつも、敢えて目を逸らしてきた『喪失』という影が、急に現実味を帯びたことを感じ、酷く冷えていく身体を自覚していた。


9へ続く



まりちゃん目次Novels TOP
HOME