「I Love まりちゃん」外伝

羨望の33階
〜9〜





『淳?何かあったか?』

 衛星携帯を通じて僕の耳に届いた室長の声に、動揺したのはほんの一瞬だった。

 けれど、それは室長に伝わってしまったようで、室長が開口一番口にしたのはやっぱり、僕への気遣いの言葉だった。

「いいえ、何も…。何もかも順調です」

 何もできない、面倒なばかりの、恋人とは名ばかりの僕。

 せめて、多忙な室長の足を引っ張らないようにしなくてはいけないのだと、何度自分に言い聞かせたことだろう。

 落ちついた声で返事をした僕に、室長は『そうか?ならいいが』と息をついた。

 本当は聞きたい事がいっぱいある。

 毎日ルカにも電話してるんですか?

 ルカのこと、気になりますか?

 ルカといる方が楽ですか?


 僕は、どうすればずっと室長の側にいられるんですか?



 …その答えは、自分が一番知っているはずなのに。

 けれど、『室長に相応しい人間』と『僕らしい僕』との酷いギャップに、僕はまた戸惑い始めている。 

 でも、今こうしてあなたと話している大切な時間は…僕だけのものだから。

 室長が聞かせてくれる『今日の出来事』に、僕は明るく笑って答える。

 僕が小倉和彦さんを好きだと言うこと。

 これだけは、誰も邪魔することができない、僕だけの大切な想いだから。



『それはそうと、淳』

「はい」

『会長から何か聞いたか?』

 え?会長から?

「いえ、特に何も」

 昨日も今日も、会長はほんの少し顔を出されただけで、あっちこっちを飛び回っている。だからご挨拶をしたくらいで、他の話は何もしていないんだけれど…。


『そうか、まだか』 

「何かあるんですか?」

 そう尋ねた僕に室長は、

『いい話ではあるんだがな』

 と、妙に気落ちしたように言った。

 気落ちするようないい話?

『淳、再会のキスは当分お預けになりそうだ』

 …え?どういうこと?

「室長…出張伸びそうなんですか?」

 何か問題でもあったんだろうか?順調なら、明後日にはこちらへ向かう飛行機に乗れるはずだったんだけど。

『いや、こっちは予定通り片づきそうなんだがな、お前が…』

 珍しく、室長が言葉を濁した。

「僕が…?」

『会長のお供だ…淳』

 …え?

 それって…もしかして? この前春奈さんが言ってた…。

『初出張だよ、淳』

 ほんとに…来たんだ。

「ぼ、僕が…です、か」

 久々に言葉に詰まってしまったんだけど、室長はそれに関しては何も言わなくて、ただ『秘書になったからには当然だろう?』と笑った。

『初めて海外出張に出るお前に、いろいろとアドバイスしてやりたかったんだがな、どうやら入れ違いになりそうだ』

 そ、それはかなり心細いかも…。

「…会えないんですね…」

 心底不安そうに言ってしまってから、僕は『しまった…』と唇を噛んだ。またこんな甘えたようなことを…。

 けれど室長は僕の耳元に優しく柔らかく笑いかけてきた。

『大丈夫だ。最初だからな、会長も色々と考えて下さっているから』

 その優しい言葉に、僕は努めて落ちついた声で「はい」…と返事をする。これ以上心配をかけたくない…と。

 けれど、室長は僕のその『取り繕った落ち着き』をまるで見透かしてしまったかのように、もう一度、慈愛に満ちた声で僕に呼びかけてきた。

『淳…。リラックスして、いつものお前らしくあればいい。小さくなる必要も、背伸びをする必要もない。今の長岡淳が出来ることをやってこい。最初の一歩だ。いいことがあっても悪いことがあっても、これからの自分のために、すべてを記憶に留めてこい。それがお前の糧になる』

 …ああ…どうしてこの人の言葉はこんなにも胸に沁みるんだろう。

「はい…」

 例え物理的な距離が何千キロ、何万キロあろうとも、まるで側にいてその暖かい体温を感じさせてくれるような、そんな優しさ…。

「室長…」

『ん?なんだ?』

 好きです。あなたが。大好き、です。

 未だに自信のない僕の口から、その言葉はなかなか出てはくれないけれど。

「一生懸命、やってきます」

 だから、側に置いて下さい。

『ああ、しっかりやってこい』



                    ☆ .。.:*・゜



「淳くん、出張だって?」

 室長との電話で随分浮上していた僕に、相変わらず闇討ちのように彼――ルカは現れた。

「…うん」

 どうしてそんな秘書室内の情報まで…。

 そんな疑問が顔に出ていたんだろう、ルカはちょっと肩を竦めて見せてから可愛らしく笑った。

「和彦さんがさ、『淳は暫く留守だから』って」

 …嘘、だろ…?

 暫く留守だから…? 留守だからって…何? 何があるわけ?

「いってらっしゃい。淳くんが留守の間、僕がいるから室長の心配はいらないからね。思う存分働いておいでよ」

 室長の心配なんているものか。

 あの人は何から何まで何でも出来るスーパーマンなんだ。君が心配する必要だってないんだ。

 心配なのは…ただ…。

 ただ…。僕の気持ち? ううん、違う。

 じゃあ、室長の気持ち? ううん、それもきっと違う。

 でも、なんだか不安で不安で仕方がない。

 いつか、僕は室長の『恋人』という場所を失ってしまうんじゃないだろうか…と、そんなことばかりを考えて。

 いや、そもそも、僕が今この立場でいられること自体が奇跡に近いことだもんな。

 これが崩壊してしまうなんてこと、きっと簡単に起こるんだろう。

「なあに?どうかした?淳くん」

 思わずジッと見つめてしまった僕に、ルカが――やっぱり砂糖菓子のように甘く――笑って見せた。

「…ううん、何でもない」

 ――僕の和彦さんを取らないで…。

 そう言えたら、どんなにいいだろう。




 そして、その日の夕方、僕は会長からアメリカ・ヨーロッパ10日間の出張に同行を命じられ、翌々日、室長が到着する1時間前に、僕は成田を飛び立った。

 こんな時に自分の問題で悩んでいる場合じゃない。
 
 仕事に私情を挟むなんて、オンとオフとを完璧に区別出来る室長にとっては何よりも厭わしいこと。

 だから、今だけは何もかも忘れて、この大切な仕事のことだけを考えよう。


 これからの僕のために。

 そして、これからの僕たちのために。


10へ続く



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