「I Love まりちゃん」外伝

空飛ぶ33階
〜1〜


 


 僕、長岡淳がMAJECに入社して1年。

 会長のお供で海外へ出るのも今度が4回目で、漸く手順その他にも馴染んできたところ。

 もちろん、まだまだ出来損ないの僕には悩むことや難しいことも多くて日々葛藤してるわけだけど、ボスである会長、そして先輩秘書の沢木さんと佐保さん、頼もしい同期の春奈さん…と、素敵な人たちに囲まれて、何とかがんばっている。

 そして、何より僕を励まし支えてくれるのは…

 そう。上司であり、ええと…その…恋人、である、小倉和彦さん。

 相変わらずオフでもうっかり『室長』って呼んでしまう僕なんだけど、和彦さんはそんなとき、わざと冷たい顔をして僕の目をジッと見るんだ。

 で、僕がちゃんと『和彦さん』って呼ぶまでそのままで…。

 でも僕が『和彦さん』って呼ぶと、とろけそうな笑顔になって『なんだ? 淳』って優しい声で僕の名前を呼んでくれるんだ。

 ほんと、こんなに幸せでいいのかな…って、不安になるくらい、僕は甘やかされて――もちろん仕事ではそうはいかないけれど――毎日を送っている。


 で、そんな優しい恋人の和彦さんには――というか、僕にとってもだけど――今、オフで重大な事が起こってる。

 和彦さんには4人の妹がいるんだけれど、僕は一番下の春姫ちゃんだけ知っている。

 僕と和彦さんが今の状況でいられるのも春姫ちゃんのおかげで…。


 でも春姫ちゃんの3人のお姉さんたちのことは全然知らないんだ。

 名前が上から『秋葉さん』『冬那さん』『夏実さん』ってことと、それぞれの職業と年齢くらい…は知ってるんだけど。


 ちなみに一番上の秋葉さんは24歳で、すでに結婚されていて、旦那様は外国のエアラインのパイロットなんだそうだ。


 2番目の妹の冬那さんと3番目の夏実さんはなんと双子だった。
 僕と同じ23歳で、冬那さんは医大生。
 夏実さんは大手旅行会社のベルギー支店に勤務。

 春姫ちゃんは20歳で大学生。
 5月にはデビュー作となる映画が公開されて、いよいよ女優として歩み始める…ってところ。


 で、今回どういう重大事が起こっているかというと…。

 冬那さんに結婚話が持ち上がってるんだそうなんだ。

 冬那さんはまだ学生。
 相手は医大に入学当時からのつき合いである先輩で、すでに都内の大きな病院で医師として働いている人らしい。

 この人が2週間前の日曜日の夜、突然小倉家に現れて『冬那さんを下さいっ』って、和彦さんの前で土下座したんだそうだ。

 和彦さんとしては頭ごなしに反対するつもりもないし、理由もない。

 相手に問題がなくてお互いの気持ちが固まっていて、そして冬那さんの学業に影響がないのならOKしようと思ったんだそうだ。

 けれど。

『冬那さんを下さいっ』って、頭を下げた彼氏は一人で現れたんだそうで、その後ろを慌てて冬那さんが追ってきて『まだ結婚できないって言ったでしょっ! 勝手なことしないでよ!』って、大騒ぎになったんだそうだ。


 どうしてそんなことになったのかと和彦さんがただしてみれば、二人の気持ちはすでに固まっているらしいんだけど、冬那さんが『私はお兄ちゃんがいい人を見つけない限り結婚しない!』って、和彦さんの目の前で彼氏に宣言したらしくて…。

 その冬那さん発言に和彦さんは焦ったんだそうだ…和彦さんが焦るところなんて想像もつかないけど。


 …って、のんきな事を言ってる場合じゃない。

 そう、このことは僕にも関わってくる話で。


 僕と和彦さんがどうこうなる前、春姫ちゃんは度々口にした。

『お兄ちゃんには幸せになってもらいたいの』って。


 つまり、彼女たち姉妹は、自分たちがお兄ちゃんの青春を奪ってしまったと感じてるらしくて、早くお兄ちゃんにいい人を…って思ってるってことなんだ。


『お兄ちゃんにいい人を』


 その言葉は、僕の胸に深く突き刺さる。

 彼女たちが望んでいるのは、和彦さんを幸せにしてくれる『女性=お義姉さん』の存在であり、『僕』なんかでは絶対にない。

 けれど和彦さんは僕にこう言ったんだ。


『俺のパートナーは生涯お前一人だからな』…って。


 それはもちろん僕にとってはこの上なく嬉しい言葉ではあるんだけれど、妹さんたちにとっては『永遠に素敵なお義姉さんは来ない』ということに他ならなくて。


 どうすればいいんだろう。

 このままでは僕は冬那さんの結婚を邪魔してしまうことになる。

 そして、妹思いの和彦さんをも苦しめる羽目に…。


 冬那さんの一件以来、仕事中のふとした息抜きの時に、和彦さんはちょっと遠い目で考え事をしていることがある。

 大切な妹に幸せになって欲しい…けれども僕のことを『パートナー』だと紹介するわけにはもちろんいかなくて、和彦さんはきっと今、妹さんと僕の板挟みになって悩んでいるんだ…。

 僕はもちろん和彦さんの気持ちをこれっぽっちも疑ってはいない。

 どうして僕みたいなのに…って言う疑問はこれからも僕の頭を離れないだろうけれど、でも和彦さんは嘘は言わないから、だから僕は和彦さんを信頼してついて行くしかないんだけれど、いくら和彦さんが僕のことを思ってくれていると言っても、それとこれとは話が別だ。



「淳? どうした。難しい顔をして」

 言葉と一緒に、僕の額に小さなキスを贈ってくれる和彦さん。

「心配事でもあるのか? 可愛い顔が台無しだぞ」

 …正直言って、和彦さんがこういうことをすらっと言えるキャラクターだったとは予想外だったんだけど。

 でも、そう言われて僕は、ジッとその笑顔を見つめてしまう。

 そしてその笑顔と言葉に僕は、僕に重荷を負わせまいとする和彦さんの気遣いを感じる。

「和彦さん」

 そう呼ぶと、もっと優しく笑ってくれて…。

 僕は、オフであれオンであれ、和彦さんの重荷になるなんて絶対嫌だ。

 でも今この事態に直面して僕に出来ることと言えば、和彦さんの邪魔にならないように大人しくしていることくらい。

 息を詰めて、ジッと見守るしかなくて…。


 きっと和彦さんは、これ以上僕には何にも言わないつもりだろう。

 妹さんたち――特に『結婚』という重大なことを控えている冬那さん――を、これからどう……。

 …騙す…?

 ふと、後ろ暗い感情に行き当たって僕の思考が一瞬凍り付く。

 でも、そういうこと…だよな。

 和彦さんがこの先ずっと僕といることを選び、僕もそれを望むのなら、3人の妹さんたちにはずっと嘘をつき通さないといけないってこと…。

 あれだけお兄さんの幸せを願う妹さんたちに、僕は酷いことをしてるんだ。


 どうしよう。どうしたらいいんだろう。



「こら、淳」

「ふがっ」

 いきなり鼻を摘まれて、思いっきり間抜けな声を出してしまった僕に、和彦さんは今度はちょっと妖しい顔で囁いた。

「俺の腕の中にいて、考え事とはいい度胸だな、淳」

 え…ええっと、その…。

 現在の僕たちのシチュエーションはと言えば、なんて言うか、その、ベッドの中だったりして。

 しかも僕の着ているパジャマ――和彦さんのだから、かなり大きいんだけど――は、すでにボタンが全開で…。


「…んっ」

 その、露わになった素肌にキスを落とされて、思わず出てしまった声を僕は慌てて握った拳の背で塞ぐ。

 そんな仕草を余裕の笑みで見下ろす和彦さんは、『強情だな』と更に妖しく囁くと、するりとパジャマのズボンの中に手を滑らせて、あっと言う間に僕を…僕の全てを掌握してしまう。


『どうして声を我慢する?』


 何度もそう言われた。

 我慢しなくていい、いや、して欲しくない…とも言われた。

 けれど、思わず漏れ出てしまう声を自分の耳で拾った瞬間、僕はとんでもなくいたたまれない気持ちになるんだ。

 まるで誘っているかのように響いてしまう、どうしようもなく甘ったるい声。

 だから必死で我慢するんだけれど、それでもいくらも経たないうちに身体も思考もすべて和彦さんの手に堕ちて、僕は結局、自分の意識の遠いところで、上げ続ける声を片隅に記憶することになるんだ。


「ふ…ぅ」

 深く抱き込まれて、いつしか素肌を密着させて、和彦さんの体温が僕に移ってくる。ううん、僕の体温はきっと、和彦さんより先にもっともっと上がっていたに違いない。

「熱いな…淳の中は…」

 耳元で囁かれた言葉に身を震わせて、和彦さんを受け入れる為の準備をしている間中、僕は息を詰めて耐える。

 そうでないと、とんでもない声をあげてしまいそうで…。



                   ☆ .。.:*・゜



 よほど眠りが深いのだろう。胸に抱き寄せると素直に体を寄せて来る。

 その小振りの頭を撫でていて、気が付いた。

 いつもはさらさらと指の間を通る柔らかい髪が酷くもつれている。

 ゆっくりと整えるように梳きながら、さらに腕の中に囲いこむ。

 声を上げまいと頑張る淳を、それならば堕とすまでだと激しく責め上げて、涙を撒き散らしながら果てるまで、執拗に揺さぶり続けた。

 恐らくあの時にシーツに擦られていた髪がもつれてしまったのだろう。

 淳を抱いてしまうと、『加減』という言葉を忘れてしまう自分が少し情けなくもあり、新鮮でもあり…。 


「…淳…」

 意味無く小さく呼びかけると、腕の中でふわりと笑った。

 たまらなく愛しさが募る。

 もっと奔放に、感じたままに振る舞う彼を見たいと思う反面、いつまでも初々しい反応を示す彼を可愛いと感じている自分も確かにいて、結局のところ、溺れているのは自分だと自覚して苦笑するだけだ。


 淳の眠りの邪魔にならないように、そっと、そっと髪を梳きながら、和彦も目を閉じる。


 明日から2人とも出張だ。
 自分は国内だが、淳は会長のお供で午後から4日間アメリカへ行く。


 そう言えば、NY支社のカイトがやたら淳のプライベートを知りたがっていたと春奈が言っていた。

 これは釘をさしておかねばならないだろう。
 もちろん淳にではなく、カイトにだ。

 あの男、仕事はできるし信頼もできる。

 MAJECの三大支社の一つであるNY支社の中でも特に会長の覚えのめでたい社員の1人で、つまり、会社としては申し分のない社員なのだ。

 が、如何せん、手が早い。

 遊び上手なおかげでトラブルにまで発展することにはならないようなのだが、好みのタイプと見るや、男女関係なくあっと言う間に美味しくいただいてしまうという有様だ。

 仕事上の駆け引きにはそこそこ慣れてきた淳ではあるが、仲間が相手では油断もするだろう。

 一度気を許すと、淳のガードは途端に甘くなる。

 そこがまた無邪気で可愛いのだ…などと暢気に言っていられるのは、淳をこの腕の中に抱き留めている間だけだ。

 そんな時間は限りなく少ない。 

 まして、遠く海を隔てて離れてしまっては、護ってやる手だてもない。


 唯一。
 こう言うことで頼りたくはないのだが、会長が目を光らせてくれることを願うばかりだ。

 会長にとって淳は義弟。
 世界中を敵に回したところで痛いとも痒いとも思わないであろうあの人の、たった一つの弱点は一人息子の智雪だが、たった一つの泣き所であるのは母親の響子夫人だ。

 その響子夫人が、宝物のように大切に育ててきた淳は、会長にとってもやはり宝物らしく、目に入れても痛くないほどの可愛がりようだ。

 だから、それにすがるしかない。…というのは、本当に情けない話ではあるのだが。


 そうだ、もう一つ、解決しなくてはいけない問題があった。

 妹の冬那の結婚問題がいきなり振って湧いたのだ。

 お互いが思い合っていて、相手も自立した人間であるのなら、反対する理由は何もない。

 幸せになって欲しいと願うばかりなのだが、どうしてそこへ自分の問題が絡んでくるのか。

 妹たちの気持ちはわかるし、ありがたいとも思う。

 自分たちの世話に明け暮れて、恋人を作る暇がなかったのだと思いこんでいる彼女たちは、自分が妹たちの幸せを願うのと同じように、自分の幸せを願ってくれているのだろう。

 だが、自分は今、幸せだ。これ以上なく。

 いずれは淳と一緒に暮らしたいと思っているから、妹たちにも折を見て告白しようと思っていたのだ。

 なのに。


 あれは、節分になろうかという頃だった。

 正月には誰も帰ってこなかったおかげで、淳と蜜月を堪能できたのだが、やはり顔を合わせないと心配なもので、『まったく帰ってこない気か?』と声を掛けてみれば、彼女たちは一斉に帰ってきた。

 その、久々に兄妹が揃った席で、話題はやはり春姫の女優デビューのことで、ロケから帰ったばかりの春姫の話で盛り上がっていたのだが。


「ねえ、見てみて。これ、監督の長男さんなのよ。淳くんって言うの」

 と言って、春姫が出した写真は、紛れもなく淳のもの。


 ――いったいいつの間にこんなものを手に入れていたんだ…。


 自分もこんなのは持っていないのに…と、情けない感想を思わず内心で漏らしてしまったのだが、とにかく、自然な笑顔で愛車に手を添えて立っている淳は、まるでアイドルのようだ。


「うわ、可愛い〜!」

「王子さまだわ〜」

「こんな弟が欲しい〜!」

 秋葉と冬那と夏実が一斉に大騒ぎを始めた。

「ねえねえ、やっぱりデビューするの?」

「ううん。芸能界には興味ないんだって」

「え〜。もったいないわっ。絶対イケてるのにぃ〜!」

「そうよそうよっ、ヘタにすれたアイドルよりよっぽど清楚だし可愛らしいし〜」

 確かにそうだ。その言葉には激しく同意したいのだが。


「ねえ、お兄ちゃんもそう思うよね?」

 同じタイミングで同意を求められて、和彦は『もしかして、今が告白のチャンスか?』と、覚悟を決めた。

「…あのな」

 だが、春姫の無邪気な声がそれを遮った。

「実はこの淳くん、すでに会社員でね。しかも、お兄ちゃんの部下で、MAJECの秘書さんなのよね〜」

 ……。

「え? そうなの?」

 秋葉が目を丸くした。

「…あ、ああ」

「まさかお兄ちゃん、苛めたりしてないでしょうね!」

「そ、そんなことするわけがないだろうっ」

 焦りのあまり、言葉に詰まってしまった。
 それを冬那と夏実が驚いて見つめる。

 こんな兄は初めて見た。
 これはよほど大切な…。


「ねえ、お兄ちゃん! 淳くん、私に紹介して?」

「…えっ?」

「だって、大切な部下なんでしょ?」

「あ、ああもちろんそうだ」

「だったら、お兄ちゃんのお墨付きじゃないの〜。紹介してよ」

「ちょっと待て、お前にはつき合ってるヤツがいるんだろう?」

「いいのいいの。乗り換えちゃう」

「夏実っ、そう簡単に乗り換えるとかいうんじゃないっ」

「なんでそんな固いこと言うのよ〜。お兄ちゃんだって、私がより良い相手と一緒になる方が嬉しいでしょう?」

「そ、それはそうだが…」

「じゃあ、いいじゃない」

「だめだ!」


 取られてなるものか。
 たとえ妹でも。

 春姫にだって譲れなかったほど、大切な人なのだ、淳は。


「長岡はMAJECの未来のTOPの片腕になる大事な人材で、大切に育てていかないといけないんだっ。ちょっかいかけたら承知しないからなっ!」


 これぞまさしく『売り言葉に買い言葉』。

 言い放ってしまった和彦の隣で、春姫が呆れたように肩を竦めた。


 ――その大事な人材に、まっさきに『ちょかいかけた』のは誰なのよ。


 窮地に立つ兄に、これと言った助け船を出す気もなさげに、春姫はしれっと視線を流した。


 そんなわけで。

 和彦は『大事な話』を妹たちに打ち明ける機会を逸したまま、いくらかの時が過ぎ、冬那の結婚問題が持ち上がってしまったのだった。



2へ続く



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