番外・現世編 「古(いにしえ)の瑠璃の珠」
【1】
「……んっ…たつ…や」 『りゅうか…』 「あゆみ…」 枕元の仄暗い灯りだけが照らすベッドの中で、組み敷かれた華奢な身体が刺激に耐えかねて大きくしなる。 それを追いかけて、がっしりとした体躯が更にのし掛かり、動きを大きくしていく。 「…た、つや……あぁ…っ、んっ…」 『りゅうか……』 「愛してる…あゆみ…」 荒くなっていく息の下、どれだけ抱いてもその渇望感が拭えなくて、龍也は今夜も歩が泣き出すまで追いつめてしまう。 愛おしくて愛おしくて仕方がない。 重なり合った部分から、いっそ溶けて一つになってしまいたいほどに…歩が……欲しい。 Pipipipipipipi…… 子どもの頃から気に入って使い続けている目覚まし時計は、ずっとこんなに耳障りな音がしていただろうか? 歩はこの頃、この電子音を1秒も聞くか聞かないかのうちにアラームを止めてしまう。 眠りが浅いのだろう。 こんな状態が、発掘調査から戻って以来ずっと続いている。 だからといって体調が悪いということは特にない。 深い睡眠が十分にとれないと言う事に起因しているであろう、若干の倦怠感を除けばいつもと変わりはなく、しかも、その倦怠感ですら、『成人したばかり』という年齢で十分にカバー出来てしまう程度のものだから。 今日もあっという間に目覚ましを止めてしまった所為で、隣で眠る龍也はまだ夢の中だ。 発掘調査から帰国して半年。 帰国してすぐに、二人は歩の部屋で一緒に生活するようになった。 以来、二人は夜毎愛し合い、何処へ行くにも片時も離れないといった状態だ。 それはまるで、気が遠くなりそうなほど永かった、離ればなれの年月を埋めるかのようで。 もっとも、その遠大な時の経過を知っているのは歩だけ…なのだが。 「りゅうか…」 龍也の耳に届かぬよう、小さな小さな声で呼んでみる。 前世の記憶を蘇らせた歩は、不思議なほど自然に『鈴瑠』と『歩』を身の内に持っていた。 すでに神話と化すほどに遠い時代の記憶と、今ここに生きて継続しているこの記憶。 あまりに長い年数を経た二つだが、前世の記憶も歩にとっては昨日のことのように鮮明なもので、今誰かに『鈴瑠』と声を掛けられれば、自然に『はい』と返事が出来るだろう。 『歩』と呼ばれてそうであるのと同じように。 だが今、彼を『鈴瑠』と呼ぶ人はいない。 みな、遠い昔に去って行き、すでに誰も亡い。 ただ一人、誰よりも側にいてくれる龍也を除いては。 だが、その龍也に『竜翔』の記憶は、ない。 二人が通う大学は現在春休み中だが、新年度早々に再開される予定の発掘調査に向けて、関係者――もちろん歩と龍也も含まれている――は準備に余念がない。 今日も午後から大学へ行き、前回の発掘で出土した物の調査を行う予定だ。 ――もう少し寝かせておいてあげようかな。 時刻を確認すると、歩はそっとベッドから降りて小さなキッチンへ向かった。 この時間だと、食事は朝昼兼用だな…と、冷蔵庫からレタスを取り出す。 そして…、 ――そう言えば、創雲郷にはこんな葉野菜は少なかったなあ。 そんなことをぼんやりと思い出す。 創雲郷で野菜といえば、主に根菜類だった。 原種に近いのだろう。今の物より辛みの強い玉葱や細くて長いにんじん、少し短めの大根のような物がよく食べられていた。 花山寺の蓮池では蓮根が取れたのだが、それは食用ではなくて、寺院での儀式の際、供え物として花と共に捧げられるものだった。 鈴瑠も幼い頃から供物の準備を手伝っていて、10歳で修行を始めた頃には随分手際よくなっていたものだ。 そんなことを思い出しながら、当時はなんとも思わなかったけれど、こうしてずっと後の文明を生きていると、あの頃の生活は随分不自由だったなと感じる。 水路は整備されていたが、水道があるわけではなく当然電気やガスなどもない。 だが、水も空気も、今とは比較にならないくらいに澄んでいた。 泉は年中心地よい温度で新鮮な水を豊富に湧かせ、川はいつも清い流れで多くの魚たちを育み、薬草園の草花を潤していた。 満月の夜には灯りもいらないほど明るかったし、月がいない夜も晴天ならば星が埋め尽くして眩しいほどに白く輝いていた。 そして、そうでない夜には蝋燭や松明の火が辺りを柔らかく照らしていた。 今、歩が生きるこの都会の空とは星の数など比べるべくもないが、そう言えば、発掘に行った時に見上げた星空も、あの頃に比べると随分暗くなっていたと思う。 大気の汚染はあんな奥地にも広がっているのだ。 ――星の数が多すぎて、星を読むのも一苦労ってこともあったっけ。 なんとなく思い出して可笑しくなる。 ――そういえば、翔凛は、星の話をすると目を輝かせていたなあ。 床につく折りに語り聞かせた『星や空の物語』に、翔凛は毎夜夢中になった。 『ちゃんとお休みにならないのでしたら、明日からもうお話をお聞かせしませんよ』 そう言ってたしなめると、渋々『おやすみ…』と言って口を尖らせたのが可愛かった。 ――翔凛…。 歩が眠れないわけ。 それは、一つに翔凛のこともあった。 あの後翔凛がどうなったのか。気になって仕方がない。 だが今さら気にしたところで、翔凛も遥か遠い昔に土に還っているのだ。 そして恐らくすでに何度かは転生しているのだろう。 もしかしたら、この現世を何処かで生きているかもしれない。 いや、そうであって欲しいと願ってしまう。 確かめる術はなにもないが。 だから、気にするのはやめようと何度も思ったのだが、相変わらず夢に見るのは大門の前で別れたあの日の姿。 …そう言えば一度だけ成長した翔凛の寝顔を見、その頬に触れたことがあるような気がするのだが、それはあまりに朧気で記憶と言えるほどの代物でもない。 すべて鮮明に思い出したはずの創雲郷での記憶。 だが、その中に見いだせないごく僅かな記憶の断片。 眠る翔凛の頬を撫でるのは、創雲郷でも毎夜のようにしていた行為なのだが、その『朧気な記憶』の中で眠る翔凛は、15か、16。 あどけない寝顔の中にも、どこか凛とした雰囲気を滲ませていて、すでに成年しているように思えた。 だが、大門の前で別れたのは9歳のとき。 そして、今でも鮮明に思い出せるのはその頃までの翔凛…なのだ。 僅かな供だけを従えて旅立った翔凛。 まだ9歳という身には、過酷な旅になったに違いない。 怪我などしなかっただろうか、病気になりはしなかっただろうか。 漣基には会えただろうか、生涯を共にする人に巡り会えただろうか。 …幸せだっただろうか……。 思い始めるときりがない。 けれど…思わずにはいられない……。 窓から差し込む春の陽に相応しくないため息を、歩は一つ、落とした。 そんな後ろ姿を、龍也が黙って見つめていた。 歩がベッドを抜け出してすぐに、寄り添う温もりがなくなったことに気づき、目が覚めた。 発掘調査、最後の夜。 思いもかけず歩に受け入れてもらえ、想いを遂げてから龍也はますます歩の存在に敏感になった。 片時も離れていたくない。姿が見えなくなると堪らなく不安になる。 こんなことでこの先普通の生活が送れるのだろうか。 自分はどこかおかしいのではないか。 そんなことまで考えてしまうほど、歩への執着は度を超している。 …ただ、救いはあった。 歩がその異常とも思える執着を嫌がらないこと。 どれだけ求めても、必ず歩は応えてくれる。必ず側にいてくれる。触れていてくれる。 そのことだけが、龍也の心を僅かながらも軽くしていた。 だが、歩のため息はここのところ増えている。 何かにぼんやりと想いを馳せているかと思えば、沈痛な吐息を落とす。 今も、キッチンで俯いている歩を見つけ、暫く見つめていたのだが、その後ろ姿があまりにも儚げで、ふといなくなってしまいそうな不安に駆られ、声を掛けた。 「あゆみ…」 「…あ、龍也、おはよう」 振り向いた歩は咄嗟に明るい表情を作る。 「…どうした。眠れなかった?」 そっと肩を抱き寄せられ、その温もりに歩も素直に身体を預ける。 「ううん、眠れてるよ。だって、誰かさんが毎晩くたくたになるまで構ってくれるからね」 殊更明るく言うと、歩は手にしていた野菜を置いて、龍也にギュッとしがみついた。 体中に巣食う、この、どこへもやり場のない不安定な気分を、龍也と触れていることで払拭したい。 大丈夫。龍也が側にいてくれるのだから…と。 「…好きだよ、歩」 「うん…」 そんな歩の心を知ってか知らずか――いや、知るはずもない。歩の哀しみの正体など――龍也はいつも、こうして抱きしめて甘く囁いてくれる。 遠い遠い昔の、あの頃のように。 そして、あの時には遂げられなかったことも、今こうして成就した。 『身も心も結ばれる』 遥か昔には叶わなかったことが、叶ったのだ。 だから、幸せなのだ。この上もなく。 歩は自身にそう言い聞かせ、龍也に微笑みかけると食事の支度を再開した。 ――歩…やっぱり痩せてるよな…。 発掘調査から後、歩は少しずつ憔悴の色を濃くしているように思う。 何が歩をそうさせるのか。 龍也には思い当たることがなく、不安を募らせる。 もしかして、自分を受け入れていることが負担になっているから? そうも思ったが、歩は外見は華奢だが脆弱ではない。年相応の体力はちゃんと備えている。 発掘は体力勝負だから…と、健康には気をつけていたし、基礎体力もきちんと維持するように努めていた。 ならば、自分の気持ちを受け入れたことが、精神的に負担になっているのだろうか? だがそれも考えにくい。 歩は『嫌なものは嫌』とはっきり言う。相手を傷つけないように、きちんと言葉は選ぶけれど、それでも意思表示はしっかりしていて、流されたりはしない。 では何故? 考えても考えてもその理由には行き当たらず、龍也もまた不安から熟睡できない日々が続いている。 しかし、龍也にしても『眠れない理由』はそれだけではなかった。 歩と一緒に暮らすようになってから、眠ると必ず夢を見るようになった。 だが、覚醒してしまうとどんな夢を見たのか綺麗さっぱり忘れてしまっている。 確かに見ているはずの夢。 それも毎夜見ているはずなのだから、断片的にでも覚えていていいはずなのに。 必死で記憶を辿ってみるが、糸口すら掴めない。 ――何か大事なことを置いてきてしまったような感じがするんだよな…。 『思い出せない』ということを、こんなにも重荷に感じたことはない。 「龍也、コーヒーはいったよ」 歩の声に、思考の迷路から呼び戻される。 「あ、さんきゅ」 歩の笑顔。 これを守るために、自分は何かをしなくてはいけないような気がするのだが…。 「な、歩。今日はちょっと早めに行かないか?」 「え? どうして?」 「ほら、今日から刀の調査が始まるじゃないか」 前回の発掘調査で、初めて『武器』が出土したのだ。 「うん」 「なんだかさ、気になるんだ。で、ちょっと早く行ってじっくりみたいかな…なんて」 「うん、いいよ。じゃあ食べたら支度して出かけよう」 笑顔で答える歩に、龍也もまた、笑顔を返した。 |