終曲「満ち溢れる光の中へ」





第1ソロ・フルート:栗山重紀


「ウィーンへ行くよ」

 わざと、こともなげに言ってみた。

「向こうで演奏会?」

 制服のネクタイを結びながら、葵もなんともなく受け止める。

「向こうに恩師がいるんだけど、退官するんで跡を継ぎに来い、と言われてね」

 葵は小首をかしげて、椅子にかけてあったブレザーを手に取る。

「跡を継ぐって?」

 僕はそのブレザーを取り、背後に回って着せかけてやる。

「母校の教授になるよ」

 僕の母校はウィーンにある。



「いつ決めたの…?」

 葵は泣きそうな顔と声で、僕に迫った。

「決めたのは、葵が目を覚ましたとき。でも、話は今年の始めからあった」

 12月24日。
 聖陵学院管弦楽部の定期演奏会、本番30分前。

 控室で最終の音合わせをしたあと、先に燕尾服に着替えた僕が、わが子の様に慈しんできたフルーティストの着替えを手伝っている時だった。

 だが、突然告げた言葉に、葵が受けた衝撃はやはり大きかったようだ。

「行ってしまうの? 帰ってこないの?」

 どうして…どうして…、と目が訴えかけてくる。

「帰ってくるよ。葵の顔を見に、しょっちゅうな」

 僕は葵をそっと抱きしめてみた。
 久しぶりに抱きしめるその身体は、僅かにでも成長を遂げている。

「葵…少し大きくなったなぁ」

 葵は首を左右に振り、ポロっと涙を零した。

「この間まで、膝の上で寝てたのになぁ」

 いつの話だ、と、自分で突っ込んでみる。

 …だが、そうなのだ。
 葵はほんの小さい頃から、僕の膝の上にいた。
 ここで大きくなった。

 愛する綾乃の子、葵。 

 しかし、いつの間にか、葵自身が大きな意味を持って僕の人生に関わってきた。

 父親を知らない葵の、父親になりたくて。
 腕の中に残された、この宝物が愛おしくて。

 葵、お前が悟くんと歩むと決めたのなら、僕は二人を見守っていこう。
 二人の未来がいつも光に満ちているように。

「こら、泣くなってば。本番前だぞ」
「本番前にこんな事聞かせるからやんかっ」

 葵は、理不尽な、とばかりにポカッと僕の胸を叩く。

「アホ。置いていくなんて言ってないやろ。先に行ってるだけや」

 額を小突くと、葵は僕をジッと見上げてきた。

「卒業したら、来い。追いかけて来い」

 呆気にとられる葵。

「先に行って、待ってるから」

 そう、僕はいつも、君たちのために道を拓こう。



☆.。.:*・゜



第2ソロ・フルート:奈月葵


 先生が行ってしまう。
 遠く離れた土地へ。

 追いかけてこい、って言うけれど、それは2年も先の話。


「葵…」

 悟が呼びに来てくれた。
 僕は少し、先生を見る。

 先生は何事もなかったように、にっこりと笑った。

 そして僕の手を取る。
 フルートを持っていない方、…左の手。

 悟の手も取る。
 タクトを持っていない方、…左の手。

 僕たちの手が重ね合わされたとき、先生は穏やかに低い声で言った。

「二人いれば、乗り越えられる。どんなことも。だから、この手を、離すな」

 そう言って、先にたち、舞台袖へと向かっていった。


 悟は、重ねられた僕の手に、十本の長い指を絡めてきた。
 そのままそっと、唇へ持っていく。

「離さない」

 そう言った悟の声は、強くて優しいいつもの悟、そのままだった。


  
 オーケストラのメンバーが、中学生から高校生に替わる。

 ステージから戻ってくる中学生たちは、僕と悟に『がんばって下さい』と声をかけ、高校生たちは『がんばろうな』と声をかけてステージへと出ていく。

 その最後に、祐介が僕の肩をそっと叩き、包み込むように微笑んでからステージへ出ていった。

 僕もその後ろ姿に微笑み返す。
 ありったけの感謝を込めて。




 やがて客席が暗くなり、舞台が明るくなる。

 オーボエのAが静かに告げられると、昇が立ち上がり、音を受け継ぐ。

 やがてそれはすべてのメンバーに伝えられ、ほんの僅かの静寂が訪れ…。


「行こうか」

 暗い舞台袖。

 先生の言葉に、悟と僕が『はい』と小さく返事をする。

 第1ソロ・フルーティスト、第2ソロ・フルーティスト、そして指揮者として、ステージに向かう。

 万雷の拍手に迎えられる、僕の大好きな『お父さん』
 それに続く僕。
 そして僕の後ろには、僕の…愛する人。

 客席をゆっくりと見渡してから、僕たちは静かにお辞儀をする。 

 顔を上げると、真っ直ぐに飛び込んでくるライト。
 
 僕は今、僕を支えてくれた大切な人たちのために吹く。
 みんなの想いが結ばれるようにと願いながら、僕は、僕にできること…、この想いを音に託す。


 舞台と客席、ホール全体を埋め尽くす人の気配が消える。

 最初の一音を待つ、期待と緊張の時…。
 


☆.。.:*・゜



指揮:桐生悟


 僕が送る、僅かの合図を受けて、昇の弓がゆっくりと動く。

 後ろの奏者たちは、呼吸を合わせ、昇の動きにピッタリとつける。

 ソロフルートへの道を拓くヴァイオリンのメロディが、やがて守たちチェリストへと受け継がれていく。

 受け継がれ、寄り添い、それはやがて弦楽の大きな渦を生み出していく。

 それらがやがて、引き潮のように遠ざかると、ソロフルートが迎えられ、第1主題を奏でる。

 8小節後に、もう一人のソロフルートが愛おしげに絡みつく。

 最初に吹いたのは栗山先生なのか、葵なのか、僕は知っているはずなのに、もう、わからない。

 それほどまでに、この師弟は一つに溶けこんだ音を紡ぎ出す。

 見守ってきた愛の深さを物語るように。
 受け止めてきた愛の重さを確かめるように。


 すべての人がこの音に酔う。
 心震わせ、一つになる。


 葵、僕は君を守っていこう。
 君の行く道を、どこまでも寄り添っていこう。





 僕のタクトが最後の一音を紡ぎ、エンドサインを結んだ時、葵の心が僕を呼んだ。


 鳴りやまない拍手の中、葵が僕を振り返る。
 降り注ぐ光の中、葵が僕に微笑む。
 

 愛を奏でる僕の天使。
 
 二人で、この時の流れを渡って行こう。

 いつまでも。 

 僕たちの愛を、奏でながら。








君の愛を奏でて

END


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